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2

「おかえりなさいませ、リィン様」
「ただいま、シャロンさん」

 寮のドアをくぐれば、いつものようにシャロンさんが笑顔で迎えてくれた。
建物に入ってすぐ薫った、鼻腔をくすぐる甘い匂いに首をかしげる。

「他の皆様は今日はお帰りがはやかったので夕食の前にお茶の時間にいたしました。ミリアム様が部活でお作りになったお菓子もあったので、よろしければリィン様も行かれてはいかがでしょうか」

 きっと皆様喜ばれますよ、と。
疑問にシャロンさんはよどみなく答える。Ⅶ組のみんなが帰ってくるたびにそう案内していたのだろう。相変わらずの完璧な仕事っぷりに感服する。

「うん、あとで顔を出してみようかな」
「では皆様にもそうお伝えいたしますね」
「ありがとうシャロンさん」

 挨拶もそこそこに階段を上がった。
 自室に戻って鞄を置いて私服に着替えてドアを開ければ、ちょうど向かいの部屋のドアを開けたクロウとばっちりと目があった。

「よっ、お疲れさん……今日も相変わらず遅かったみたいだな」
「俺はまだ早く帰らせてもらった方だよ。トワ会長はまだ残ってるんじゃないかな」
「あいつも真面目だからなぁ」

 まったくしょうがない奴だ、とでもいうようにクロウが嘆息する。
 細められた赤に浮かんでいるのは、心配の色。

「技術部に顔出した時にアンゼリカ先輩にも話しておいたから、限度超えそうだったら強制的にでも休ませてもらってるといいんだけど」
「ばぁか、おまえだって人のことばっか気遣ってんじゃねえよ」
「わ、ちょっ、クロウ!?」

 がしっと首に腕を回されて頭をわしゃわしゃと撫でられる。
この身長差が少し悔しい。俺だって別に年齢からすればそれほど背が低いほうじゃないと思うんだが。これからまだまだ伸びる予定だし。
なんだろう……すごく、犬扱いされてる気がする。ただでさえおさまりの悪い髪質は、ぐしゃぐしゃに掻き乱されると後でなおすのも結構な手間だ。

「まぁおまえはシャロンさんのうまい紅茶でも飲んで少し休めって」
「そうさせてもらうつもりだよ」

 だから放してくれと内心で呟く。
 トワ会長ほど頑張ってるわけでもないし、逃げも隠れもする必要もないのにどうしてそこまで心配されてるのか。
 なんとなく今のクロウに尋ねたところで答えは返って来やしないだろうと開きかけた口を噤む。下手に言い訳でもすれば、横抱きにでもされかねない気がする。
 自覚はないけれど。そこまで疲れた顔をしているんだろうか。
 まだまだ精進が足りないなと自嘲する。

「だから、そういう自虐はよせって言ってるんだ」
「……俺ってそんなにわかりやすいのか?」

 不快にさせてしまったならごめん、と謝れば、クロウは盛大な溜息一つで答えてくれた。



「リィン、クロウ、遅かったのね、いらっしゃい」
「お先ににいただいているぞ」

 ダイニングのドアを開ければサラ教官以外のⅦ組の面々は勢揃いしていた。教官もまだ学院の仕事が残っているのだろう。
テーブルの上には銀のティーセット。三段のティースタンドにはクッキーときゅうりのサンドイッチとスコーンがきれいに並べられている。

「へぇ、すごく本格的なお茶会だな」
「……シャロンですもの」

 少し困ったような、照れたような口調でアリサがいう。彼女の手にはたっぷりのクロテッドクリームとシャロンさん特製のジャムが塗られたスコーンがしっかりと握られている。
 帰ってきたときに感じた甘い香りは彼女がスコーンを焼いたバターの香りだったのか。
 てっきりミリアムが持ち帰ったというクッキーとマグカップでのカジュアルなお茶かと思っていたから正直驚いた。
 根っからのコーヒー党らしいマキアスがおとなしく紅茶を飲んでいる姿にも少し驚いたけど。紅茶派のユーシスとガイウスになんやかんやと構われている様子を見れば、それなりに楽しんでいるらしい。
 空いている席に座れば、シャロンさんがティーカップを置いてくれた。
 銀のポットから注がれる赤琥珀色の暖かなお茶から香り立つマスカテルの匂い。
 一日の疲れが洗い流されていく気がする。

「リィンー! ボクが焼いたクッキーも食べてね」
「ははっ、ありがたくいただくよ」

 ミリアムが皿にうさぎ型のクッキーをたっぷりと入れてくれる。
 いったいどれだけの量を焼いたんだろう。これだけ持ち帰るほどの量だと、本校舎の二階は寮以上にバターと小麦の香りに満たされていたんじゃないだろうか。
 苦笑しながら文化部の二人組を見れば、二人して苦笑して頷いている。

「いただきます」

 うさぎを頭からかじるのがかわいそうな気がして、こんもりと皿を埋める山の中に見つけた丸いシンプルなクッキーを一つとって口に入れた。
 ふわりと口の中に広がるバターと小麦の香りと、かみ砕いたときに感じた薔薇の芳香にふと首を傾げる。
 薔薇自体に恨みはない。けれど。つい先日、それでトリスタや学園を走り回ったことを思い出して微妙に生暖かい気持ちになる。
 あの先輩はちゃんと逃げられるんだろうか。いつもついているメイドさんがしっかりしているからなんとかなるといいんだが。
 薔薇の香りのするクッキーを飲み込みながらカップを手に取った瞬間。
 ぐらりと視界がぶれた。

「……ぁ…」

 カップを落とさないようにソーサーに戻し、深呼吸を一つ。
クロウに見透かされる程に疲れが溜まっていたのがここにきて悪化した?
 ありえないだろうと思いながら、けれどそれくらいしか理由が考えつかない。

「……リィン?」

 隣に座っていたクロウの声に、不作法だと理解しながら椅子の背もたれに体重を預けふらつく頭を押さえた。

「大丈夫だ、ちょっと眩暈がしただけだから」
「おまえなぁ……それ大丈夫って言わねえからな、普通」

 あきれたような声に、ごめんと言葉に出さずに謝る。
 視界に星が散ってぐるぐるとまわる。
今までなったことはないけれど、話に聞いたことのある貧血の症状に似ているような気がする。
 みんなには申し訳ないが、今日は早々に部屋に戻って休んでおいたほうが迷惑をかけずに済むだろう。
 そう思って立ち上がろうとして、ずるりと背が滑った。

「……あ、れ? 俺……」
「言わんこっちゃない」

 立ち上がることもできずふらりと倒れこみかけた上体を、クロウに支えられていた。

「悪い、ちょっとこいつ具合悪いみたいだから部屋に運んでくる」

 ひょいと軽く背負いあげられてしまう。お姫様みたいに横抱きにされるよりはまだましとはいえ、これはかなりかっこわるいだろ、俺。
 小さな子供のころは父さんに何度かおぶってもらったこともあるけれど、いい年をした男が背負われるのは。
 気恥ずかしさに、クロウの背中に額を押し当て目を閉じる。視界を閉ざしても、まだ世界は俺を中心にぐるぐるとまわっていた。
 どうやら俺は、俺が思っていたよりもかなり本格的に調子が悪いらしい。

「大丈夫? 手伝おうか?」
「こいつ軽いし、運ぶくらいはなんとかなる。手が必要になりそうだったらまた頼むかもな」

 ……軽いのか、俺。
 帝国男児として抗議の意をこめて首にまわさせられた手でクロウのシャツをぎゅっと掴んでみるが、意図は伝わらなかったらしい。伝わっていても無視されそうだけれど。そのまま軽々と容易く運ばれてしまう。
 ダイニングのドアを閉じて、階段へ。
 一段一段。いつものクロウのペースよりもゆっくりと歩いているのは俺が重いせいか、気遣ってくれているのか。
 クロウのことだから後者なんだろうけど。
 一歳の年の差からくる余裕を見せつける背中は、俺より大きくてしっかりしている。
 こんなふうに密着することなんて普段はないけど、こうして触れているだけで安心してしまうのは包容力の差なんだろうか。
 羨ましくて。
 目の前でいつも以上にキラキラと光っていたリングピアスごと、クロウの耳朶に咬みついてやった。

「……っ!? おい、リィン?」

 びくりと背中を震わせ。クロウが足を止めた。
 なんとなく、楽しい。
 このいつも余裕を見せる男のこんな声を聴けて。いいように犬っころ扱いされていることへの意趣返しができて溜飲が下がった気がする。

「んー?」
「なにした?」
「クロウの耳食べてた」

 問われるままに答えて、甘噛みした耳朶を舐める。
 舌に触れる銀の冷たさが心地いい。

「おまえとりあえずそれいますぐやめろ、二人して階段から落ちたらシャレにならんぞ」
「えー?」
「えー、じゃない」
「じゃあ階段の間は我慢する」

 気に入ったおもちゃを取り上げられて、妥協案を提出すればクロウは何故か深くため息を零した。

「なんでおまえは……俺の耳なんかを気に入ってるんだよ」
「ん、冷たくて舐めてると気持ちいい気がする」
「よしよし甘えた、あとでシャロンさんに氷でも貰ってきてやるからそれで頭冷やそうな」
「やだ。クロウがいい」
「……おい、リィン?」

 クロウの声に、訝しむ響きが宿る。

「クロウがいい」

 ぎゅっと縋りついて懇願する。
 体調不良のせいか、頭は熱で沸いているらしい。

「……ったく」

 とんとんと、階段を上がるスピードがさきほどまでよりも早くなった。揺れることより俺を部屋に届けることを優先してくれるらしい。
 力の入らない腕を上げて、クロウの髪をわしゃわしゃと撫でてやる。

「なぁリィン……俺はお前の馬かなにかか?」
「俺を犬扱いするからだ」
「いつした?」
「さっき」
「してねえ……してねえよな?」

 疲れたように呟くクロウをほんの少しだけかわいそうだと思いながら、それでも欲に負けて耳朶に噛みついてやる。
 いつも余裕ぶってるクロウが息をのむのが。うれしくて楽しいって言ったらきっとクロウは怒って呆れるだろうから言わない。
 俺の部屋のドアを開いて、ベッドの上にひょいと荷物みたいに転がされた。

「……犬扱いよりひどい」
「おまえが急に人の耳なんぞ噛むからだろ…ったく」

 ぶつぶつと文句を言いながらも、ぶっ倒れた後輩をわざわざ部屋まで運んでくれて。
 本当なら、それだけで帰ってしまうだろう。そもそもここまで運んでくれただけでも破格の好意だ。
 クロウは『ギャンブル好きでかわいい女の子好きで、でもいつも狙った子はアンゼリカ先輩にとられてて、子供にはモテる、ちゃらんぽらんだけど頼りになる先輩』でしかない。無条件に甘えていい相手じゃ、ない。
 それでも。
わかっていても、さっきまで触れていた体温が恋しくて。

「リィン?」

 クロウのシャツの裾を、握りこんだまま。
 放してなんて、やらない。



 掴んで引き寄せた手首に、唇を寄せる。
 ごくりと喉がなるのをはしたないと恥じながら。普段なら、感じることもない欲のままに口づけて舐めあげる。
 こちらへ向けられたままの紅玉の双眸が訝しげに細められる。

「おい、リィン」
「ん」

 手首に噛みついたまま。視線だけ上げてクロウに応える。
 
「おまえ……誰に何を盛られた?」
「?」

 問われた内容が、とっさに理解できず首を傾げる。

「……何を食った?」
「ん、クロウの耳?」

 今は手か。
 手首をがじがじと味わう。日頃銃を器用に操る腕はしっかりしていて節張っていて、掌は厚くて大きい。
これだけ大きければ、掬えるものも多いんだろうか。
 掌に口づけようとして、ふと。
 微かな違和感を覚えた。

「そうじゃなくてだな……そのまえだ、そのまえ」
「ん、くっきー?」

 違和感の正体をつかめないまま、そっと掌にキスする。

「ミリアムが作ってきたウサギ型の?」

 唇で掌の感触を確かめながら、ふるふると首を横に振る。

「あ? ぜんぶウサギだっただろ?」
「なんか丸くて薔薇の香りがした」

 思い返すだけで、くらりとするような薔薇の香り。
 そう言われれば、不調を訴えたのはあれを食べて飲み込んでからだったか。

「そんなのあったか……? しかし、薔薇……、か」

 俺に右手を与えたまま、クロウが考え込む。
 やめろと言われないのをいいことに唇で辿ったところに舌を這わせて、味わう。

 厄介なことになったなとクロウは嘆息する。
 視線の先には、後輩――諸事情により今現在は同級生の少年。
 けれど。
 普段は漆黒の髪は内から光るような白銀に。とろりと潤んだ双眸は暗く深紅に色を変えている。ベッドに下ろしてやれば、赤子のように無邪気に熱心に、何故か気に入ったらしいクロウの手を捕えて舐めている。
 赤子のおしゃぶりのごとく与えておきさえすればおとなしくしているから仕方なく、ベッドの縁に腰を下ろして。自分の掌を味わっている白髪赤目の少年を見下ろしていた。多少くすぐったいが実状的なそれに関して問題はとくにはない。片手が使えればある程度のことには対処できるだろう。
 明らかな問題はこの状況をどうするべきか。だ。
 どう見ても、何もかもがおかしすぎるだろう。
ただの疲労による体調不良や、アノ潜在能力の発露だとかでは説明がつかないリィンの奇行。
 考えられるのは、どこかでおかしな薬でも口にしたか。あるいはどこかの誰かに精神感応系の術でも掛けられたか。
旧校舎や魔獣という可能性は一応外しておいていいだろう。鍵は貸し与えられているというのに、自由行動日以外に旧校舎にこの根が生真面目な少年が入ることはないだろう。
 リィンの行動範囲や面識は広いし、そもそもこの帝国やこの街の業も深い。絡まりあう因果の糸がリィンという存在に収束していくように感じるほどに。
 トラブル体質なのは知っている。入学直後のオリエンテーリングでの事故も、実習先で巻きこまれた数々の事件も。資料として目は通しているし報告も受けている。
 
 厄介な人間に厄介なモノを与えた犯人への恨み言を内心で吐き捨てて。
とりあえず。
リィンの異常に真っ先に気付いたのが自分でよかったのだろうと思う。
鉄血の子供たちや元遊撃士や執行者ならともかく、ただの学生にこの存在のお守りは荷が重すぎるだろう。
ダイニングを出た時は体調が悪いだけに見えたというのに。
背負って運んでいる最中、いきなり耳に噛みついてきたあたりから様子が明らかにおかしかった。
部屋についたときにはもう髪からも眸からも色素は抜けきっていたから、階段を上っている最中に変わったんだろう。
誰にも見られていなければいいと願う。
いつかは本人が『仲間』には話すだろうけれど。こんな形での秘密の暴露の仕方はあまりにこの子供が不憫すぎる。お披露目なんてものは、それなりに整えた舞台でやるもんだ。
それで少しでも、この子供に刻まれた傷が癒えるのならそれでいい。
やわらかな光を帯びる銀糸の髪を撫でてやれば、リィンはうっとりと幸せそうに目を細めた。
普段ならば、この子供はここまで無防備な――子供じみた顔なんて見せない。他者と比べてクロウには無意識の甘えを見せることはあるが、それでもほんのたまにのぞかせる程度だ。他の『仲間』からはいつもなにかとリーダーとして頼られている側。
純粋に甘えたことがないんだろう、哀れで可愛い子供。
今だけくらい、甘えさせてやってもいいんじゃないだろうか。薬にしろ術にしろ、それが効果が切れるまではどうしようもない。
 けれど。

「おまえな、意味わかってやってんのか?」

 おそらくこの子供は知らない。
 知っていても知らずにやっても、どちらにしてもとびっきり性質が悪いとは思うけれど。

「手の上なら尊敬のキス
額の上なら友情のキス
頬の上なら満足感のキス
唇の上なら愛情のキス
閉じた目の上なら憧憬のキス
掌の上なら懇願のキス
腕と首なら欲望のキス
さてそのほかは、みな狂気の沙汰 」
「懇願?」

 諳んじた詩に、リィンが赤い目を細めて掌に口づける。
 恭しげに、ひそやかに。
 誓うように。

「おまえが俺に懇願、ねぇ」

 自嘲の笑みを浮かべて、クロウは自らの髪を掻き上げる。
 似合わないにも、程があるだろうが。
 掌から、つと滑ったリィンの唇が、指を食む。赤く小さな舌を見せつけるように覗かせて。
 その仕草が、普段の健やかなリィンとあまりにも違いすぎて。嫌な頭痛がする。

「クロウ」

 誰に何を嘆けばいい?

 名を呼ばれたことに意識がとられ。気が付いたら視界が反転していた。
 リィンにベッドに引き倒されたのだと気付いたのは、その体が自分の上に乗りあがり紅玉の双眸と視線が交わったから。
 君臨者のように見下ろし、笑みを刷いて。

「掌の上なら、懇願のキス」

リィンの掌が、クロウの口を塞ぐ。
 これはキスでもなんでもないだろう。ただ物理的に唇に掌が触れているだけで、こちらにキスという意図はないのに。
けれどこちらを見下ろしてくる深紅は、楽しげに煌めいている。

「これで相子だ……クロウ、おまえは俺に何を望むんだ?」

 その問いかけに、一瞬クロウの思考が止まった。
 望んでいることならば、ある。願いも。譲れないことも。目的も。

 けれど問いながら、口は塞がれたまま。
 ――聞くつもりもないのかと、クロウは目を眇める。交わった視線の先で、リィンは一度瞬いた。

「一つだけ教えてやる。とっておきの方法」

 見下ろしていた目を伏せて、リィンがそっと顔を下ろす。背負って運んでいた時にひたすら噛みつかれていた左の耳朶。

「相手の気持ちを想像するんだ。きっと今気持ちいいんだろうな、とか。今感じているんだろうな、とか」

 囁きに混じる吐息。
 顔は見えないけれど、その囁きを紡ぐ唇には笑みが浮かんでいるんだろう、きっと。リィンならば浮かべない質の笑みと声音。
 そうして最初に与えられた口寂しい子猫が食んでいたようなそれとは違いすぎる、明確な意図をもって触れてきた唇に、クロウは息をのんだ。
 ――こいつは今、なにをした?
 学習したのか。それとも切り替わったのか。
 どちらにしてもクロウからすれば好ましくはない方向へと変わったと眉を顰める。
 覚醒した状態のリィンに腹の上に跨られ伸し掛かられて。両腕は自由だとはいえ、跳ねのけることはクロウとてたやすくはないだろう。

「痛いのだけは我慢できないけど、嫌なことは気にならなくなるんだ。無理矢理は駄目だ。どうしたら相手が喜んでくれるのか、ちゃんと考えろ」

 くすくすと楽しげに子供っぽく笑いながら。皮膚の薄い首筋に食らいつかれる。口を押えていないほうの手が器用にクロウの着ていたシャツのボタンを外していく。その手を掴んで止めれば、リィンは首筋から顔を離してクロウを見下ろした。

「これは嫌か? クロウ」

 蛍星の双眸を細めて、訊ねる。
自分でも言っていた通り無理矢理はするつもりはないらしい。

「服着たままのほうが、すき?」

 そういう問題じゃない。という抗議はリィンの掌に拒まれて音にはならない。けれどしっかりと交わった視線だけでそれを解したらしい子供は、口を押えていた掌をおずおずと外した。
 解放感に、大きく息を吐く。
 単純な息苦しさよりももっと、何かが喉の奥で蟠っている気がする。胃の腑が重い。
まったく。
どうしてやるのが、一番いいのかわからなくなる。突き放すべきか。それとものせられてやるか。
 とりあえず個人的な好みとして、上に乗られるよりは乗っかる方がいいかと身を起こせば、リィンはびくりと身を竦めた。

「おい……リィン?」

 唐突な反応を訝しんで首を傾げる。
 また、切り替わった。

「ごめん……なさい……っ痛くしないで……なぐら、ないで」
「……おいおい」

 また、めんどくさそうなことになったとクロウは肩を竦める。
 赤い双眸を潤ませて怯える姿は、そういう嗜好を持つ人間ならば嗜虐心をひどくそそられるだろう。
 クロウとしてはまったく好みではないけれど。
 どうせ弄って遊ぶならば、普段の生真面目でまっすぐなリィン相手の方がよほど面白い。こんな幼気な子供を嬲るような下種な趣味は持ち合わせてはいない。
 怯えて逃げようとする体を、抱きしめてやる。
 白銀に色を変えた髪を、そっと撫でて。宥めながら、必死に考える。
 これはいったいなんなんだろうか。
 薬にしろ暗示にしろ。もともとリィンが持ち合わせていた性質だろうか。考えてみるが、シュヴァルツァー男爵家でいじめられてトラウマでも負ったとは考えにくい。
普段のリィンを見ていれば、それはないだろうと思える。
いつぞやのパトリックのように浮浪児と蔑んだり陰口をたたく人間がいなかったわけではないだろうに、呆れるほどに健全でまっすぐで影を感じさせない。あの可憐な妹にも兄弟以上に慕われているようだった。
 ならば。男爵家に引き取られる前の記憶でも蘇っているのだろうか。
 けれどそれにしては、どうにも違和感が拭えない。
 いくつか思いついた仮定のうち、一番確認が容易そうなものから可能性を潰していくしかない、とクロウは嘆息した。

「とりあえずリィン、ちょっとおまえのARCUS出せ」

 声をかければ、リィンは慣れた手つきで左腿のポーターポーチから新型戦術オーブメントを取り出して素直にクロウに渡す。
 開いてみれば、リンク機能が稼働している証のように、嵌められた結晶回路のすべてがほのかに光っている。見比べようと取り出したクロウのARCUSと比べればはっきりとわかる起動状態。
 どうやら心当たり全てを総当たりする必要はなくなったらしいことには安堵しながら、けれど肝心の誰とつながっているのかがわからない。
 ARCUSを持っているのはⅦ組と2年生の試用実習組と、おそらくは鉄血の子供たちも持っているだろう。
 けれど普段戦闘時にリンクをつなぐときに現れる指向性は見受けられない。寮内やトリスタの中であれば、まだ光の糸が見えるはずだ。
 糸を追えぬほどの距離の相手と、何故、どれだけ共鳴しているのか。
 おそらく、ARCUSも原因の一つではあるが、これだけが引き起こしているわけではないのだろう。
 さて、どうするべきか。
 正体不明のリンクを切断させようか。けれど、不明だからこそ無理に切断する危険性もある。

「……クロウ?」

 目を擦りながら、リィンが顔を上げた。
 泣き止んだというより、また切り替わった感覚がある。声音や表情が、まったく別の人格のように。

「………寒い」

 するりと猫のように懐にすり寄って、甘えられて。ベッドの上の毛布を頭から背中を覆うようにかけてやる。
 我ながら甲斐甲斐しさに苦笑してしまう。

「俺はいつだって幸せ。いつだって楽しかった。だって俺は……」

 やわらかな毛布にくるまれて、まるで自分に言い聞かせるように。そう、信じたいというように呟く。
 そして、指を絡めてクロウと手を繋いでくる。
 ふと、逆の手で持ったままだった二つのARCUSへと視線を移した。
 ライン構成こそ微妙に異なっているものの、嵌められた結晶回路の構成自体はどこか似通って見えるのは、二つずつ嵌っている刻耀石のせいだろう。上位三属性自体が珍しい中でも特に時属性の素養をもつ者は少ない上に、導力器の回路のスロット二つをそれが埋めることはあまりない。これほど特異な配列の導力器が二つ揃うことなど偶然ではありえないことだと、この子供は知っているんだろうか。
そして揃いの黒とは対照的な光を放っている赤と青。
 自分のARCUSに嵌めた結晶回路とラインが、うっすらと光を放ち始めていることに気付いて、クロウは身構えた。
 どういう力の作用か、かすかな音を立てて歯車が噛み合う。淡いけれどしっかりと光を放つ結晶回路と二つの導力器が光で繋がる。
 そうして、繋いだ手と繋がったリンクを伝って溢れ出すように流れ込んできた莫大な容量のそれに、ぐらりと眩暈を覚えた。
 普段の戦闘でリンクを繋いだところで、つながるのはあくまで戦闘に関連する表面的なものだけだ。動揺程度ならばわかるものの深層心理だとか思考だとかまでは伝わらない。戦闘にそこまで必要ではないからなのか、ただ技術的に無理なだけなのか。
 けれど今、こちらが繋ぐ気はなかったのに自動的に連結されたリンクによって、リィンの受けたすべての情報がこちらへと怒涛のように流れ込んでくる。
 それは人一人が背負うには、あまりにも重い記憶。
 その粗方を受け取り読み取って、クロウは低く呻いた。
こんなものを、なんの気構えもなく見せつけられれば『普通の学生』であれば錯乱しても不思議はないだろう。そう考えて、自分がどれだけ普通とはかけ離れているのかを自覚して少しへこむ。けれど普通でないからこそ、こうして耐えて助けることもできるのだと自分を慰める。そんな己の行動すら、馬鹿げていると自虐して切り捨て受け入れる。
クロウとは逆に。幼い頃の記憶を持たず自分という存在の楔を持たないリィンには特に影響が強く出るだろう内容だろう。
そしてこれが空想の話ではなく、実在する少女に現実に起きていた過去の出来事なのだとわかってしまうからこそ。

「まったく……しかしD∴G教団、ロッジ、楽園、蒼き叡智、プロレマ草、か」

 見せられた記憶に垣間見たそれらから、リィンが食べたクッキーにグノーシスそのものかプロレマ草の成分が含まれていたのだろうと推測する。
 大方、どこかの薔薇にまつわる男爵令嬢あたりが媚薬の研究でもしてそこに至ったのだろう。
すぐに追放されたとはいえ、一時期あの教団事件の関係者もこの帝国へと亡命を希望していたのだ。
帝国の貴族派とつながりのあったハルトマン議長が。彼が実際にどこの貴族と繋がっていたのかは知らない。カイエンあたりに聞けばわかるだろうがヘタな動きは取れない。
 現状としてはあの薬の情報は、この国でも完全に遮断されていたわけではないということだ。
 噂という形でそれが広まっていたとしても不思議はない。そしてこの国の貴族が望めば大抵のものは手に入る。
 有能すぎるメイドがそんな隙を与えるとは想像がつかないが、フロラルド伯爵家の嫡男あたりが食べていればまだここまで面倒な事態にはならなかっただろう。
 『悪魔の力を借りることで願いをかなえる薬』
 それを、元々気配に敏く――感応力が極端に高いリィンが、それを強めるAll-Round Communication & Unison System、新型戦術導力器ARCUSを持っている状態で蒼の叡智を口にしたせいで、本来では繋がるはずのない存在と『繋がって』しまった。
 ある意味では厄介だが、ある意味では運がいい相手と共鳴したとも言えそうだ。過去こそ重いものの、連結相手の現状としてはそれなりに安定しているようだし繋がっていることでリィンを支配し悪用しようという気配もない。少し面白がっている様子だけはかすかに伝わってくるけれど。害意がないというのは、ありがたい。
 性質の悪い偶然が重なった結果か。
 白兎か死線か深淵か猫か、それ以外の何物かがわざとリィンに食べさせたという可能性も捨てきれないが、あのあたりを締め上げたところで素直に吐くとも思えず。犯人を特定することにそれほど深い意義もないだろう。
 毛布に包まり、縋るように手を繋いでくる腕の中の子供を見下ろす。

「大丈夫だ、リィン。俺が守ってやるから。だからお前は何も見なくていい」

 今だけは。
 本来なら知るはずのなかったこと。重なるはずのなかった軌跡だ。忘れ去ってしまえばいい。
 自分の負っているものだけでも相当重いのに、お人よしすぎて他の人間の重荷まで一緒に背負われて潰れられるのは寝覚めが悪い。
 つながったままのARCUSをベッドに放り投げれば、かるく弾んでシーツに落ちた。自由を得た手で、そっと掌で目隠しして囁く。

「おまえは『俺たち』の、大事な大事な人だからな」

 目隠しするなら、おまえよりもずっと上手くやれるはずだ。
 隠し事は得意だ。

「……クロ…っ」

 呼びかけた名を、封じて。
pixiv [2013年11月17日]
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