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スタンダードを聴いた後で R18
「……?」
たまたま職員室に顔を出したら、これ頼むわとサラ教官に用事を言いつけられた。
「別に強要するわけでもないし、断ったからって単位あげないとか意地悪する気はないわよ?」
「そういう心配は特にはしてませんよ」
トールズ士官学院に入学して半月あまり。Ⅶ組の担当教官は、たしかに士官学院の教師にしては随分と型破りな部分はあるとは思うけれど、『意地悪』なんて言葉とは縁が遠い人だと思う。私感でしかないけれど。
「それで、どういった要件なんです?」
「んー、うちの学校の校庭の裏って森じゃない?」
「森というか、まぁ敷地内に木は多いですね」
故郷のユミルの山を覆う、黒い森を脳裏に浮かべれば。広葉樹が多くどこか明るい色の木々が連なる様は、なんとなく森というよりは林だとか藪だと表現したくなるというか。オリエンテーションで使った旧校舎も半ば、その林に飲み込まれているようなものだ。
「あそこ、時々実技訓練でも使うのよ。ほら、サバイバル訓練とか」
「はぁ」
士官学院だ。そういう授業もあっても不思議はない。特別実習という機会を与えられているⅦ組が特殊なのだとは知っているつもりだったけれど。
「それで、その……『森』が、どうしたんですか?」
「実習で森に入った二年生がね、森で奇妙な悲鳴を聞いたっていうのよ」
「悲鳴って……」
それは、少々危険なんじゃないだろうか。学院生がサバイバル訓練に使える程度には遮蔽物があって、それなりの広さのある場所で聞こえた悲鳴。
「学生で行方不明者は出てないわ。外部の侵入も疑われるけれど、士官学院の敷地の森に入ってやることといってもねぇ、秋なら銀杏を拾いにくる市民とかもいるらしいけど」
「銀杏、ですか……」
「酒のアテに合うわよ?」
銀杏拾いならばいいのだろうか。
「サラ教官……」
「ごめんごめん、つい、ね。今のところ実害はでてないわ。ただ、報告の方もそれなりに出ていてね。生徒会の方にも依頼が出てるみたいで、トワが見に行こうとしてて」
「会長が、ですか」
脳裏に、トワ生徒会長の姿を浮かべる。
「責任感強いからねー。でも仕事も押してるし、夜の森にあの子一人行かせるのも、ちょっとね」
確かに。いくら士官学院の敷地内の森とはいえ、女子学生を一人でそんなところには行かせたくないだろう。原因もわかっていない、たとえば不審者が紛れ込んでいる可能性だって、零とはいえない。
「つまりトワ会長が森の調査を決行するよりも前に俺が敷地内の森に入って、その悲鳴らしき声がなんなのかを調査すればいいんですね」
「ええ、魔獣が迷い込んできているだけなら対処は任せるわ」
「了解しました」
随分と『緩い』なと思い返しながら、校庭から一段高くなっているサラ教官曰く『森』を探索する。万が一を想定して帯刀してきてはいるけれど。サラ教官のあの緊張感のない様子からすれば、大したことではないんだろうか。
自分の手に余るような状況ではないことを祈りつつ、森を進む。
学院の敷地内とはいえ、校舎からはそれなりに距離もあって、ずいぶんと静かだ。
風に揺れる葉擦れの音。木漏れ日に斑に染まる腐葉土には、人の足跡がいくつもある。実習が行われたのだから当然だろうけれど。魔獣だとか、獣の足跡は見た限りなさそうだった。どれほどの規模での訓練だったのかは知らないけれど、学院生が導力銃や導力杖でアーツをぶっ放したり剣戟を響かせたりしていたのならば普通の獣ならばこの場を倦厭しそうだとは思う。
少し進んで、足を止めた。
森の気配を探る。意識を集中させて、精神を研ぎ澄まして。音と光と、振動、温度と匂い。
鳥の囀りが聞こえた。トリスタでも、駅前の広場の街路樹によく椋鳥が止まっていたり、雀や駒鳥の声で朝の訪れを知ったりはするけれど。
「……うぐいす?」
ユミルの郷では、たまに啼いていたけれど。思い返してみればトリスタやトールズ士官学院では聞いた覚えがなかった。
「……まさか、鳥の鳴き声を悲鳴と聞き間違えるとかは……ない、よな」
仮にもトールズ士官学院の学生だ。
帝都ヘイムダルから出たことがなかったりしたら、聞いたこともなかったりするものなんだろうか。
「お前こそ、鳥の鳴き声と聞き間違えるとはなぁ」
くつくつと笑いを滲ませた声に、視線を巡らせる。そこに、見知った男の姿を見止めて。思わず、目を眇める。
それなりに精神集中はしていたのに、気配をまったく感じなかった。
橡の木の幹に凭れて、こちらを見据える葡萄色の双眸。銀髪に、木漏れ日が降り注いでいる。
「50ミラ先輩」
「……その呼び方かよ」
眉尻を情けなく下げて、口端を微かに上げて嘆息して見せるバンダナ姿の先輩は、4月の自由行動日に生徒会室への行き方を教えてくれて――お近づきの印にという名目で、50ミラコインを持って行った。
「名前も、聞いてませんし」
「なら普通に先輩、でいいんじゃねえの? なぁ『後輩君』」
先輩は、にっ、と笑って片目を器用に閉じて見せる。
「すいません、つい」
「まぁ、借りたまんま返してねえオレが悪いんだろうけどな」
「そう思っているなら、返してください」
「わりぃ、財布持ってきてねえんだ、また後でいいか?」
「……そんなところだろうと思ってましたよ」
はぁ、と息を吐く。本当に、この先輩は曲者だ。
「それで、俺が『何を鳥の鳴き声と聞き間違えた』んでしょうか」
何故気配を絶っていたのかだとか、そもそもどうしてこんなところにいるのかとか。訊きたいことや訊くべきことは山ほどあるんだろうけれど。
とりあえずその中から直近のそれをぶつけてみる。
聞いてみればバンダナの先輩は、どこか上機嫌に口端を吊り上げた。
「こいつだ」
そういって見せてくれたのは、掌に収まる竹製の小さな、笛で。
昔、修業中にユン老師が似たようなもので遊んでいた記憶がふと過った。
「……鶯笛?」
その名前を口にすれば、先輩が葡萄色の双眸をわずかに見開いた。この人が純粋に驚く顔というのは初めて見た気がする。
「正解。よく知ってるな、このあたりじゃあんまり知られてないのかと思ったが」
「そうなんですか?」
言われてみれば、ユン老師以外でこれを吹いている姿は浮かばない。東洋のもの、なのだろうか。
己に染みついているユン老師からの影響と東洋趣味は、自分にとってはあたりまえに存在しすぎていて、時々それはこの帝国にあっては異質なのだと、思い知らされることがある。だからどうだというわけでもないけれど、どれだけシュバルツァー家が暖かく俺を受け入れてくれても、己自身のあの力や、覚えていない出自のせいですべてがどこか曖昧なんだろう。
「さあ、どうだろうな」
「またあなたは適当な事を……」
会ったのは、まだほんの二回。
「ま、来たのがお前でちょうどよかったかもなー」
くつくつと喉奥で笑って、先輩はその小さな笛の吹き口を咥えた。
ほー、ほけきょ
澄んだ鳥の声に似せた笛の音が、森に響く。
目の前で吹かれても、どこかにウグイスがいるんじゃないだろうかと思えるほどにリアルな、音色。先日の『手品』の件といい、妙に小器用な人だなと思った。
笛の音につられたのか、小鳥が一羽、飛んできて先輩の肩に止まる。
目的こそわからないものの、鳥寄せをするならば確かに、気配は絶っておくほうがいいだろう。ウグイスは警戒心が強いから。ちょうど先輩の制服にも似たオリーブグリーンの羽の小鳥は、そのくちばしに小さな白い花を咥えていた。
「ウグイス……いや、メジロか」
「詳しいな、流石山育ちだ」
「……ぇ」
何故、俺の出身まで知っているんだろうか、この先輩は。この人のことだから、そう聞いたところではぐらかして応えてやくれないんだろう。
俺の戸惑いだとか疑念を読み取ったのか、先輩はどこかバツが悪そうに笑った。
「シュバルツァー男爵家といえば、鳳翼館を皇帝から授かったユミルの領主だろ?」
「先輩こそ詳しいですね、こんなに早くバレるとは思いませんでした……っていうか俺の名前も知ってたんですね」
貴族クラスからならばともかく。制服の色からみても平民だろう先輩がうちのような男爵家の家名まで覚えていることに驚く。
「そりゃ有名だからなぁ、鳴り物入りの特別クラスの連中は」
「……?」
言われて、Ⅶ組のみんなを思う。確かに四大の一角アルバレアに、光の剣匠、帝都知事と有名どころが集まっている気はしなくもないけれど。その中でも俺は地味な方なんじゃないだろうか。
「ま、ウグイスも来てるぞ? まぁ警戒してるだろうから姿は見せねえだろうが」
唐突に話を戻されたかと思うと、先輩は笛を口にはしていないのにどこからかほーほけきょとウグイスの鳴く声が聞こえた。
確かに、先輩の言うとおり。ウグイスもこの森にいるらしい。
そして。
こちらへと歩いてくる人の気配に、息を飲んだ。先輩のように完全に気配を絶つわけでもなく、潜んでいながらその足音も存在も丸わかりの素人じみた、それ。
先輩はにやりと、非常に性質の悪い笑みを浮かべる。
一つ、二つ、三つ。足音や気配から、侵入者らしき男の数を判別する。
何者なんだろうか。様子を窺おうと振り返った体は、後ろから伸びてきた先輩の腕に捕まった。背中や後頭部に、先輩の体が触れる。
すっぽりと抱き込まれてしまうこの身長差は、同性として複雑なものがある。しかも、意図が読めない。
問いただそうとした口まで、大きな掌に塞がれてしまえば、どうしようもない。
――力づくで逃れるという方法も、無くはないけれど。なんとなく、今はそういう方法をとるべき時期じゃない気がする。直感だけだけれど。
声まで奪われれば、あとは視線だけだ。
「少しの間我慢してくれ、あいつらがトラップに捕まるまで、な」
低く、俺だけに聞こえるくらいに押さえられた声量で耳元で囁かれる。トラップって何のことだろう。侵入者に対して、先輩が何か仕掛けていたんだろうか。
仕方なく、名前も知らない先輩に抱き込まれたまま、大人しく闖入者たちの様子を窺う。
木々の茂みから現れたのは、トリスタでも見かけたことのない男達だった。その手に持っている網に、目を細める。
「なー」
「……っ」
「――ドライケルス帝が開設した伝統あるトールズ士官学院の敷地内の森にかすみ網張って、小鳥捕まえて売ろうとかする奴をどう思う? 後輩君」
囁かれた言葉に、それは許されないことだろうとは思う。思うけれど。
この喰えない先輩が、ウグイスやメジロをトールズ士官学院の敷地内で密漁しようとする連中相手にどんなトラップを仕掛けたか、にもよるんじゃないだろうか。この人のことだから、侵入者が大けがをしたり死ぬほどのえげつない罠ではないだろう。
そう、俺が信じたいだけかもしれないけれど。
素人めいた密猟者らしき集団の一人が、誰かが張っていたテグスに足を引っ掛けて転びかける。と同時にカラカラと仕掛けられていた鳴子が大きな音を立てた。
それに、先輩の肩に止まっていたメジロが驚いたのか、慌てて飛び去っていく。近くにいたらしいウグイスも、谷渡りの声が遠ざかって響く。
慌てた密猟者たちがわたわたと逃げ出そうとすれば、そのうち一人がぼすんと落とし穴に嵌った。
「……よし、一人は確保だな」
ようやく拘束が解かれる。
用心のために手は刀の柄にかけたまま、一人取り残された密猟者へと近づく先輩の背中を追う。
「なぁおっさん」
「……ひぃっ」
それほど深い落とし穴でもない。腰の半ば程度だというのに這い出すことすらできないらしい。まぁ、プロが入り込んでいたらその方が問題だろうけれど。
「残念だったな、お仲間はあんたを残してとっとと逃げちまったみたいだが」
「わ、悪気はなかったんだ……っちょっとした小遣い稼ぎになるって唆されて」
見ていると憐れにすら思えてくるほどにがたがたと震える密猟者には、尋問してくる先輩はどんなふうに見えているんだか。こちらからは背中しか見えないから、落とし穴の中の男の反応から推測するしかできないけれど。
同情はする必要もないだろうが。
「知ってることは素直に全部吐いちまえよ、なぁ?」
「ひ、ひいいいいぃ」
「おっさんの悲鳴とかいらんぞ?」
くつくつと笑って、先輩がしゃがみこむ。腰あたりまで落とし穴にはまっている男と、ちょうど視線が合う様に。見るからに落とし穴の男の顔から血の気が引いていく。
「知ってることを洗いざらい、吐いてもらおうか」
そう言う先輩に、男は壊れたおもちゃの様に、こくこくと何度も首を縦に振った。
「なんでそんなもの持ってるんですか」
「こんなこともあろうかと、ってな」
振り返って、にやりと笑う先輩に、思わず半眼になる。指にひっかけてくるくると回す様を見ていれば、おそらくは本物ではないだろうけれど。
銀色の、手錠。
それを、素直に差し出された男の手首に掛ける。その手馴れた様子に、こういったこと自体に慣れていそうな気配を感じた。
「よっし、じゃあこのおっさんをちょっくら職員室に突き出してくるわ」
「あ、それなら俺も付き合います。サラ教官に頼まれてますし」
おそらくは、学生がきいた悲鳴というのも大方この密猟者たち絡みなんじゃないだろうか。
「お前な、お人よしが過ぎるんじゃねえの、それ」
どこか呆れたような、けれど温かな心配が籠った声に苦笑する。自分でも、思わなくもないのだ。トワ会長を薄暗い森に一人で行かせると脅しつけられたことはとりあえず黙っておこう。
溜息を一つ吐いて、意識を切り替える。
「後輩君」
ふ、と先輩の視線が俺へと向けられていたことに、気づいた。
何か、しただろうか。じっと見ていた先輩が、すっと手を伸ばしてきた。微かに、髪に触れて。
その手には、さっきまではなかったはずの白い小さな花が見えた。
「それ、さっきのメジロの……」
鳴子の音に驚いて飛び去った時に、落としていったんだろうか。俺の頭に。
気づかずにそのまま頭につけたまま歩いていたのかと思うと、少し――いや、かなり気恥ずかしい気がした。
「ライノの花……にしては、花弁の形が少し違う気が」
それに、微かな香りも。
「詳しいな」
「いえ、……」
ただ、場が持たなくてなんとなく話題を出しただけで。それほど花には詳しくはない。母さんなら、よく知っているのかもしれないけれど。どうにも、草花を見分ける能力というものには疎い方だと自覚している。動物や鳥は、父さんやユン老師に教えてもらったけれど。
「リンゴの花、だな」
「そうなんですか?」
この系統の木や花は似通っていて、どうにも見分けがつかない気がするけれど。
「リンゴの木がこの中にあるんですね」
くるり、と森を見回す。
あのメジロがどこからあの花をとってきていたのか。
「密猟者から守ってくれた鳥なりの礼なんじゃね?」
そういって先輩は再び白い花をぽんと俺の頭に乗せる。何故わざわざ頭に乗せるのか、意味が分からない。
「礼って、……それに、そういうことは可愛い女の子にしてあげたらいいんじゃないですか?」
はぁ、と。二度目に吐いた息がわずかに熱く感じたのはきっと気のせいだろう。気のせいに違いない。
「先輩、ここでサバイバル訓練をしていた学生が聞いたという声は、この密猟者たちの声だったんですか?」
校舎へと戻りながら、訊ねれば先輩は密猟者の男に視線を向けた。
それだけでびくりと体を震わせた男が、こくこくと頷く――これは、信頼性としてはどうなんだろう。脅しつけて強要しているようにも、思えなくもなくて。
「二年が結構ノリノリでトラップとか仕掛けてたところに、学院の敷地だとも知らずにのこのこ入りこんじまったってとこだろ、しっかしリベンジにくるとはなぁ」
「……はぁ」
あのテグスの鳴子も、落とし穴も、二年生のサバイバル訓練の置き土産だったのか。
よくひっかからなかったものだと自分をほめるべきだろうか。
「ま、詳しい話はこわーい教官に洗いざらい全部吐いちまえよ? おっさん」
職員室でサラ教官に引き渡す時、そう笑った先輩に、男がこくこくと頷いた。
「……ほんと、お人よしがすぎるんじゃねえ?」
「それ、さっき聞きましたから。それに人のこと言えないですよね、先輩も」
顔を見合わせて、互いにはぁ、と嘆息する。
幸せが逃げる? もう、とっくに逃げてるんじゃないかな。最初に森に来たときにはまだ明るかった空は、朱く染まりすでに東から群青のグラデーションが迫ってきている。寮の門限もヤバいんじゃないだろうか。
「サラの奴もなぁ、『逃がした残り二人も何とかならないかしら』とか、簡単に言いやがって」
「あの時、さっさと捕まえておけば……」
「未遂だし一人捕まえればいいかと思ったんだがな」
山狩りをするには、学生二人では明らかに手が足りないだろう。ユミルの森より狭いとは思っていたけれど、こうして鬼ごっこをやらされてみれば、十全すぎるほどに広い。
しかも、二年生の仕掛けたトラップの大半はまだ生きているから、こちらがそれにひっかからないように移動する必要がある。空の暗さ以上に、木々に遮られた視界は不自由だというのに、先輩は慣れた様子で迷いなくどんどんと進んでいく。
まるで見えているかのように。
どれだけ小器用だとしても、視力までは自由にはできないだろうから、きっとただの気のせいだろうけれど。
先輩について歩いていけば、大抵のトラップは避けられているだけ、逃げている密漁未遂犯よりは俺たちの方が楽をしているんだろうけれど。
「さすがに、そろそろタイムリミットかねえ」
何度目になるか。先輩の溜息に心底同意する。
「仕方ねえな、原点に返るか」
「原点、ですか?」
立ち止まって、ポーチから鶯笛を取り出す。
「そういや、なんで鶯笛なんか持ち歩いているんですか?」
「あー、若いウグイスって、鳴くのヘタなやついるだろ?」
言われてみれば、確かに時折、癖のあるというか変わった鳴き方のウグイスの声も聞いたことがあるような気がする。
「だから――囀り方でも教えてやろうかと思ってな」
「随分と、面倒見がいいんですね」
自分の様にサラから頼まれたわけでもなく、自発的にこういう行動をとっているんだろうから。
「なんなら、後輩君にも教えてやろうか?」
「何をですか……?」
「囀り方」
は?
先輩の言葉の意図が読めず、首を傾げる。
「俺は、鳥じゃないですけど」
「そうか? 確かユミルには鳳翼館があるんじゃなかったか」
「本当によくご存知ですね――そうですけど」
時の皇帝陛下から守を授かった、湯治場。思えば、何故、鳳凰なのだろうか。
もし――自分だけはその可能性を否定しているけれど――ユミルを継ぐのであれば、シュバルツァーのヘラジカの紋章とともに不死鳥の翼をも背負うことになるんだろうか。
「むかーしどっかの国じゃ、白鷺が足を癒しているのをみて温泉を発見したってこともあったらしいぜ?」
「そうなんですか?」
「昔話だけどな」
温泉好きなユン老師からも聞いたことはない話に、素直に感心する。トールズの学生というのはどれだけ博識なんだろうか。それとも、この先輩だけ特別なんだろうか。
そんな思考に一瞬沈んでいたからかもしれない。
とん、と軽く肩を突かれて。後ろへとよろめいた。
先刻抱きとめられたときとは逆に、背中に触れたのはまだ冷たさを残した木の幹で。
「え?」
「隙あり」
先輩の大きめの口の端が、にぃと笑みを刻む。少し垂れ勝ちな目尻が、いかにも悪戯が成功したように楽しそうに細められていて。
呆然と見上げていたその顔の近さには、気が付かなかった。
ふわり、と。意外と柔らかで熱い感触が触れたかと思うと、濡れた何かが。唇の上を撫で上げて離れた。
「……へ?」
「いい声で、囀ってみろよ?」
耳元で、聞こえた声に目を見開くよりも。
さっき、唇に触れた『何か』が耳に触れる方が早かった。
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ゆっくりと息を吸って、吐いて。懸命に、真面目に。萎えそうなことを脳裏に描いて。
ほんの数か月前には、知りもしなかったのに。
苦笑した瞬間、ポーチに入れたままだったARCUSの着信音にびくりと身を震わせた。よりによって、こんなときにと思わなくもないけれど。番号を知っている相手が限られている通信だ。なにかあったのかもしれないと手に取る。今の状態を相手に悟られない様に、声帯だけは理性で押し通せる、か。ゲームの時のポーカーフェイスのように、何事もないように、演じられるか。
迷いながら、ARCUSを開いて耳に押し当てる。
「はい、リィン・シュバルツァーです」
至って普通を装って応えた声に、ARCUS越しに息を飲む気配。
『……お前、その声やべえだろ』
聞こえたのは、どこか呆れたような。けれど、声だけでぞくりと喉元を舐め上げられたような錯覚を覚えるような――クロウの、声で。
ヤバいのは、どっちだよ。
熱を持て余している体には、おまえの声は甘美な毒そのものだ。もう、全身に回りきっているんだろうけれど。落ち着くかと大人しくじっとしていてすら、熱が上がる。
苦しい。
きつい。
――辛い。
けれど、助けてくれと懇願するのは。矜持が邪魔をする。クロウは帝国解放戦線のリーダーで。ユミルへと、侵攻してきた貴族連合の一角だからとか、そんなもっともらしい理由より。ただ単純に、悔しいだとか、負けたくないだとか。そんな子供じみた意地で、奥歯を喰い締めて、息を吐く。
『……ばぁか』
ARCUSから聞こえた声に、目の前にはいないクロウへと脳裏で悪態をついた。舌打ちしなかったのは、そんな余裕がなかっただけだ。
『真面目なおまえのことだろうから、耐えて落ち着くの待ってんだろうけどな――とっとと抜いちまえよ』
「……な、っ」
そんなこと、できるわけないだろう。
囁くような唆しに、かっと顔が火を噴きそうに熱くなった。ふるふると、首を横に振る。
『辛えんだろ?』
本当に――なんで、この男は。ただ通信で、言葉すらほとんど交わしていない状況で。それでも俺の状況を把握しているんだろう。
ベッドで横を向いて胎児の様に丸くなって、熱が冷めるのを息を殺して待っている。
誰かに、助けてもらえるとも思ってはいない。助けてくれたシュバルツァーの家にも、災禍を招いたじゃないか。俺がいなければ、父さんも撃たれずエリゼやアルフィン殿下が浚われることもなかったんじゃないだろうか。
『リィン』
やけに柔らかく、甘く。ARCUSの向こう側でクロウが呼ぶのを、どこか虚ろに聴いている。思考がまとまらないのは、溜まった熱に浮かされているんだろうか。
多分、クロウのせいだ。子供の特権で、責任を擦り付ける。けれど、そんな甘い――あの時みたいな声で呼ばれて、あれを覚えている体が、反応しないわけがないじゃないか。
じわり、と下着が濡れた感触に眉を顰めて、唇を噛みしめる。このまま収まるのを待っている間に、下着やズボンが汚れてしまったらどうしよう。着替えなんか、持ってきてはいない。
『手伝ってやろうか?』
どこかからかうように、けれど気のいい先輩の声で問われて、首を横に振る。誰のせいだと、思ってるんだ。
けれど、どれだけ耐えようとしても無駄なのならいっそこのまま抜いてしまった方が落ち着くものなのかもしれない。悪魔のささやきに乗るようで癪だけれど。
震えの走る手を、下肢へと伸ばす。
誰もいない部屋のなか、ARCUSの起動音と俺の呼吸と。たどたどしく、ベルトの金具を解く音が響く。ファスナーをおろして。一瞬、逡巡して下着ごと一気に膝まで引き下ろした。
普段外気に触れない肌が、ひやりと粟立つ。勃ち上がって濡れそぼった自分の性器に、指を絡める。
「……っ、ん」
先端の割れ目からとろとろと溢れる腺液をなじませるように亀頭に広げて、竿を握って動かす。自慰も、ほとんどしたことがないから、その手順は。体が覚えていることを、クロウにされたことを、なぞっていくだけで。
腰が、揺れる。
自分の手では、どうがんばっても、あの感覚には到達できなくて辛さが、増していく。
腺液だけはとろとろと溢れて伝って、濡れた後ろが引くつく感覚に、顔を顰める。
ARCUS越しに、くつくつと笑う気配に、きっと奥歯を喰い締めた。クロウへの反抗心だけで、左手は前を扱きながら、そろりと右手を自分の尻へと伸ばす。体液に濡れた指で、恐る恐る撫でてみれば、びくりと体が跳ねた。
目を閉じて、嫌悪感だとか怖じ気を捻じ伏せて、ゆっくりと爪の先を中へと押し込んでみる。濡れているせいかそれほど抵抗なく、第一関節あたりまで飲み込んでしまったことに、多少の焦りと自己嫌悪と、けれどもっと奥の掻痒感を覚える。
『すげぇ、熱いだろ? お前ん中』
ARCUSから聞こえた声に、びくりと思わず自分の指を締め付けてしまって、唇を噛みしめる。せめて痛みを覚えていれば、理由をつけてやめられただろうに。
どこまで、貪欲なんだろう。
『熱くて、もっと奥にって誘い込むみたいにひくついてて』
「知る、か……っ」
吐き捨てた言葉は、けれど否定しきれてやいないんだろう。
息を詰めてしまわない様に意識してゆっくりと吐きながら、自分の指を中へと押し込んでいく。知っている形と違うことがどこか不安で落ち着かない。
なんとか根本まで飲み込む頃には、汗が滴っていた。まともな思考なんて、欲求の前に霧散してしまっている。
『イイところ、探せるか?』
「ん……っ」
ぐるり、と自分の尻の中の指を動かす。敏感な粘膜が擦れて、水音が響いて。いたたまれない。
はくはくと息を吐きながら、恐る恐る、指を増やして中を探る。
クロウに触れられたら、何も考えられなくなるあの場所。自分で触れるのは、怖いとしか思えないけれどそれでもあの刺激がなければ、物足りないのだと。暴走した体が、理性を焼きつくして求める。もっと、と腰が揺れるけれど。
『……届かねえ?』
「っ、く、っそ」
痛みを覚える程指を伸ばして、中を抉っても。見つからない。じわりと、視界が滲む。
前だけ擦ったところで、それ以上の快感を覚え込まされた体は満足なんてできないことは思い知らされたのに。恥を忍んで後ろに指を突っ込んでも無理だとか、どうすればいいのか途方に暮れる。自分の物つかんで尻に指を突っ込んだままという状況自体、酷いだろうけれど。
『助けてやろうか?』
ARCUSから聞こえた囁きに、ごくり、と唾を飲み込む。元はと言えばおまえのせいだろうと詰りたくなる気持ちもあるけれど。
「……助け、て……くれ」
クロウ。
くだらない矜持だとか意地だとかを捻じ伏せて。この苦しさから解放してくれるだろう相手に縋る。
ぱたん、とドアが開かれて、びくりと体が跳ねた。
「……え」
助けてくれ、とは言った。今、言った記憶はしっかりとある。
クロウが、同じ艦に乗っていたことも、わかってる。
「すげぇいい眺めだな」
にやりと笑う朱眸に、上がっていた熱が一気に下がった気がした。
「あ、う、ぁ」
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