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RE-COLLECTION
七耀歴1192年の冬。
自由都市ジュライ市国。
「クロウ坊ちゃん!」
「やっべ」
メイドのマーサの声を背後に聞き流して、屋敷の窓から飛び出した。中庭の芝生が、柔らかく着地の衝撃を受け止めてくれる。そのまま、地面を強く蹴って走り出した。
冬の空は鈍色の雲を垂れこめて、今にも雪が落ちてきそうだ。ジュライの街中に張り巡らされた運河も、そんな空の色を移すように暗く沈んで、波立っている。
吹き付ける海風の身を切るような冷たさが心地いい。思わず背筋が伸びる気がする。
「じいちゃんが帰ってくる時間までには帰るから!」
だから心配はいらない、と声を張り上げる。
困ったように、呆れたように。溜息を吐いて苦笑するマーサの姿が脳裏にやけにリアルに浮かんだ。きっと、「お爺様、と呼んでくださいませクロウ坊ちゃん」のお小言付きだ。すんなり想像がつくくらいには、オレがいつも彼女を困らせているんだろう。自慢にもならないけれど。
くつくつと喉の奥で笑いながら、風で飛びかけた帽子を慌てて手で押さえる。その間も足を止める余裕なんてない。逸る鼓動と弾む息。走っている間だけは、寒さはそれほど感じない。
時間は有限なんだ。立ち止まるなんて、もったいないじゃないか。
通いなれた橋を駆け抜けて、目的の場所までは子供の足で全速力で5分、といったところか。
ちらり、と街の中心の時計塔へと目をやる。午後1時、じいちゃんが帰ってくるまでの猶予は4時間半、といったところか。両親が亡くなって一人残されたオレを引き取ってくれた祖父は、多忙を極めているのに可能な限り夕食はオレと一緒に家で取ろうとしてくれる。その厚意を無下になんて、できるはずもない。
かといって、マーサや執事ががっちりと教育的指導をしてくれる屋敷で大人しくしていることなんて無理。頑張って午前中だけでも、ちゃんと勉強したんだから午後くらいは自由にさせてもらうことにする。オレがそう決めた。
石畳の坂を駆け下りれば視界が開けて、港が目に入る。冬特融の鈍色の海へと伸びる桟橋。大型の導力客船や、貨物船。
隣国ノーザンブリアを襲った異変のせいで、随分と船便の数は減ったのだとじいちゃんに聞いたけれど。それでもオレの目からすれば、こんな船がたくさん行き来する様を眺めるのは飽きのこない娯楽の一つだった。手元に釣竿でもあれば、1日でも座っていられる自信はある。
釣り上げた魚は夕食の足しになるし。市長をしていても、うちはそれほど収入に余裕がある方でもないから。一方的に世話になっているガキからすれば、少しでも家計を助けられる数少ない善行だろう。ついでにオレも楽しめるんだ、誰も損しない。
「よう坊ちゃん、今日もお屋敷を抜け出してきたのか?」
「釣竿忘れちまったんだけどなー」
顔見知りの船員を見上げてニッと笑えば、帽子の上からわしゃりと頭を撫でられて、苦笑した。
街の商人たちは表面上はニコニコ笑っていたところで腹の底は真っ黒で読めないけれど、港の男達は気さくで付き合いやすい。海を見て生きているからなんだろうか、とぼんやりと思う。
それにしても、もう、頭を撫でられるような子供扱いされる年でもないと思うんだけどなオレとしては。
「そりゃあおまえあれだ、『女神のおぼしめし』だろ?」
「どんなおぼしめしだよ」
笑って、いつの間にかオレの隣を陣取ったもう一人の常連の猫の頭を撫でてやる。
悪いな、今日は新鮮ミルクも持ってこなかったし、釣りもしないから魚もないんだ。そう、口に出さずに撫でれば、黒猫はにゃあと一声鳴いた。わかってるんだかいないんだか。黒猫からすれば、どちらでも大差はないんだろう。
仕事上がりの男達に混じって世間話をしながら黒猫の相手をする。猫のお目当てのもう一つ、昼網の競りも終わったのだろう。腹も満たされているらしく機嫌は上々らしい。嫌がりもせずに大人しく撫でられている。野良のくせに、こんなに人慣れして大丈夫なのかと思わなくもないけれど。これがこいつなりの処世術っていうやつなのかもしれない。そう考えれば、オレとこの猫は似た者同士とも言えるんじゃないだろうか。
「そういや、さっき変わった男を見かけたな」
男たちの一人が不意に口にした言葉に、思考を切りあげて顔を上げる。
「変わった、男?」
「ああ、珍しい黒髪を長く伸ばしていて」
「そりゃ、このあたりなら珍しいかもなぁ」
ジュライもノーザンブリアもレミフェリアも、金だとか茶だとかの色素が薄い髪色の方が多い。銀髪もそれほど珍しくもない。
「で、な」
「もったいぶるなよ」
先を促せば、他の連中も『オレも見かけた』と言い出した。
ちりちりと、うなじのあたりの毛が逆立つような違和感を覚える。予感、だろうか。
「その男、どこへ向かったんだ?」
口を挟んだオレに、男たちが一斉に一方向を指さす。
「……桟橋? 余所者がそんなところに何の用が……」
客船が繋がれているならば不思議はないけれど、視線の先には海へと伸びる桟橋だけが映っている。客船も貨物船も繋がれてはいないそんな場所は、釣り人くらいしか用がないだろう。けれど見渡した限り、釣り糸を垂れているような姿もない。
迷う隙も暇もなく、立ち上がっていた。
別にオレは、ただの市長の孫なだけで。この国の市政だとか治安を担っているわけでもない。そんな権力も責任もないただのガキだ。それでも、ジュライは大切で大好きな祖父の街で、この街自体にも愛着はある。
ただのガキでも。
子供だからこそ、無茶のしようもあるだろう。
「ちょっと様子を見てくる」
「無茶はするなよ、クロウ坊ちゃん」
「そうそう、大人を頼れよな」
ぽふんと頭を軽く叩かれて苦笑する。
「当然だろ?」
にぃっと笑みを吐いて。板製の桟橋を駆け渡る。
そして――その光景を、目にした。
ばしゃん、と跳ねあがる水しぶき。蒼灰の海に、一瞬だけ浮かんだ白銀の光は、魚の鱗の反射なんかじゃなかった。女神に救いを求める様に空へと伸ばされた、子供の小さな手。
まっすぐにオレを見据えていた、鮮烈な赤。
すぐに波間に飲まれて消えたそれに、ためらうこともなく手袋を外して帽子とマフラーを毟り取る。
「ロープと小型ボートと用意を! あと人を呼んでくれ!! なるべくたくさん!!」
叫んで、コートと靴を脱ぐ。焦っているはずなのに、こんな時だからこそ、なのだろうか。
頭の芯はどこか痺れたように冷静に、今自分が為すべきことをはじき出す。
「子供が溺れてるんだ!!」
「クロウ坊ちゃん!?」
オレの声が届いたらしい船乗りたちが、わらわらと手に救助用に必要なものを持って集まってくる。
「お前が飛び込むのか?」
「オレが一番早いだろ!」
海の船乗りたちは、海に接していながら泳げないものも少なくない。ただでさえ冬の海だ。一瞬だけ見た銀髪の子供の救助は一刻を争うだろう。
ならば、今から大人を待つよりは多少泳ぎなれているオレが向かう方が、早い。
「無茶するなよ? おまえに何かあったら」
「まかせろ」
動きやすい薄着には、海風はずいぶんと冷たい。裸足の足裏に感じる板も冷え切っていて。
すぅ、と息を吸ってゆっくりと吐き出す。
焦るな。
慌てるな。
落ち着けばちゃんとやれるはずだ。周りの大人たちにフォローも頼んである、多少の無理には目を瞑っておいてもらおう。苦笑して、渡し板を蹴った。
水面に飛び込んだ瞬間、世界が切り替わる。うるさいほどに吹いていた海風も、人の声も遮られる。泡に遮られる視界に目を細め、求めるものを探して視線を巡らせる。
それを目にした瞬間、息を飲んだ。
水面から差し込む冬の陽光よりも、眩く、けれどどこか昏く内から何かを滲ませる、白銀の髪の子供。意識はないらしく、蒼い水の中へとゆっくりと深く沈んでいく姿。
『それ』が何なのかと一瞬、考えて。どうでもいいかと結論づける。少なくとも今、オレが為さなければならないのはあの子供の救出だ。むしろ、目印になってありがたいと思って今のところは納得する。悩むのは後回しで問題はない。
掌で水を掻き、足で蹴る。
防波堤の外側の外海であれば、波にのまれていたかもしれない。波の穏やかな港内だからこそ、陸上を歩くよりも、身が軽く自由に動くことができる気がする。手を伸ばして、意識のないらしい銀髪の子供を抱きとめれば、子供からあふれていたあの光はすぅ、と急激に弱まっていく。まるで役目を終えたとでもいうように。
光が収まって、腕の中の子供がほんのわずかに身じろいだ。薄く開いた眸が、まっすぐに射抜くようにこちらを見据えて、ふわりと笑った気がした。安堵したかのように瞼がぱたりと閉じる。
オレなんかを見て、安心してちゃだめだろうに。
白銀に煌めいていた髪は、海に熔けるような漆黒へと色を変え、水にふわふわと揺れている。その様は、どこか黒猫めいて見えて思わず笑みが零れた。
小柄で華奢な体で助かった。もし溺れていたのが、男たちが話していた大人の黒髪の男だったならば、こうしてオレが助けることはできなかっただろう。水中を運ぶだけでも一苦労しそうだ。
子供の顔を水面から出してやれば、近くまで着ていたボートにのった男からロープが投げ渡された。ありがたく受け取って、子供の脇下を通してロープで自分の体に縛り付ける。子供は意識はなくぐったりとしていて顔色もないものの、体温はまだ失われてはいない。
会ったこともない、見知らぬ子供だというのに。
それでも――失いたくはないなと、思った。
ロープを引かれる力にあらがわず、ボートへと身を乗り上げる。
「呼吸が止まってる。水も飲んじまってるかもしれねえな」
水の冷たさか酸欠か、紫に変色しかかっている唇を撫でて、肺へと息を大きく吸い込む。気道を確保してみても呼吸が戻る気配はない。
形のいい小さな鼻をつまんで、口を開かせて。その唇を覆った。
小さな肺に、ゆっくりと酸素を送り込んでやる。吹き込んだ空気が吐き出されるのを確認して、二回。
それで自発呼吸が戻ればいいが、と様子をみていれば子供はびくりと体を震わせてげほげほと激しく噎せた。気管に水が入っていたのか、ひゅうひゅうという音と苦しげな咳はその小さな体も相まって痛ましさすら覚えるものの、それでも呼吸が戻ったのだからよしとするべきか。
体を横に向けてやり、少しでも楽になる様に願いながら、背中を摩ってやる。子供のオレから見てもまだまだ小さくて。
こんな子供が、どうして初冬のこの季節に、海で溺れるようなはめに陥ったのか。そもそも、『このあたりでは見かけない黒髪の子供』だ。
オレにはなんの力もないけれど。それでも、なんとかしてやることはできないだろうかとない知恵を振り絞って考えていれば、ふわりと温かな何かに包まれた。
「……じい、ちゃん……?」
頭から、ふかふかのタオルを被せられてわしゃりと撫でられる。じいちゃんはオレに渡したのと同じタオルを、オレが助けた子供を守る様にそっとかけてくれた。海風を凌ぐことができてはじめて、体が随分と冷えていたことに気付く。寒中水泳を決行したまま、冬の海風に晒されていたんだ。
「よくがんばったな、クロウ」
大好きなじいちゃんの優しい声に、張りつめていた糸が切れる様にぺたりと座り込んでしまう。じわり、と視界が滲むのが、なんだか何かに負けたみたいで少し悔しいけれど。
それ以上に。
大好きなじいちゃんに認めてもらえて、褒めてもらえたことが嬉しくて。泣いてしまわない様に唇を噛みしめる。男なんだから、簡単に泣くなんてかっこわるいだろう。
みっともない自覚のある顔を見られない様に伏せて、じいちゃんにぎゅっと抱き着く。
じいちゃん、オレがんばったよ。あのちっこい子供、ちゃんと助けられたよ。
けれど。自分の身の上を思えば。命を助けるだけでは『助けた』とは言い難いことも理解している。あんな小さな子供が一人で生きていけるはずもない。施設に入れられるか、里親に引き取られるか。身を以て体験しているからこそ。
助けた子供がこの先どうなるのか。心配になる。
素性も知れぬ、子供。できることならば、自分もろとも祖父が引き取ってくれれば一番、安心できるけれど。養ってもらっている身としては、望みを強く訴えることなんてできやしない。
「……お前はもう少し我儘を言ってもいいと思うがな」
「オレは――じいちゃんには十分に、甘やかしてもらってるから」
じいちゃんは仕事も大変だし、オレの面倒もしょい込んでくれているし。今日はたまたま人助けでの騒ぎだけれど、毎日なんだかんだと迷惑をかけ続けている。子供のオレからすれば、助けたあの子供が幸せになってくれれば、それで。
それ以上をオレが望むのは、傲慢だろうと笑う。
「まったく、お前は」
ぽんぽんとなでてくれるじいちゃんの掌の暖かさが気持ち良くて。心地よくて。無茶をした自覚のある体は、ずいぶん疲れが溜まっていたんだろう。
そこからの記憶は、どこか曖昧で。多分そのまま、眠ってしまったんだと思う。
気が付いた時には自室のベッドに寝かされていた。海でずぶ濡れになっていた服は温かな寝間着に着替えさせられていて、マーサやじいちゃんに迷惑をかけてしまったなと苦い笑いが浮かぶ。
薄いカーテンの向こう側、窓の外は群青色に染まっている。どれだけ寝ていたんだろう、オレは。
「……あの子供」
眠る前のことを思い出して、ベッドを飛び降りる。素足のまま絨毯の上を駆けて部屋のドアを開けた。
廊下を抜けて階段を一気に駆け下りる。一階のじいちゃんの執務室の前に立ったときにようやく寝間着のまま来てしまったことに気付いた。
ノックをしようとする姿勢のまま、着替えに戻ろうかとためらった瞬間に。目的の部屋のドアが開かれた。顔をのぞかせたじいちゃんがオレににっこりと笑いかけてくれる。
「目が覚めたのか、クロウ」
大きなしわくちゃな掌が、頭を撫でる。タオル越しではないその温度にどこか安心して目を細めた。
「うん、――じいちゃん」
言うべきことは、たくさんありすぎて。
寝間着のままでごめんなさい、だとか。無茶をしてごめんなさい、だとか。いつのまにオレは自室のベッドで寝かされていたのかとか、あの子はどうなったのかとか。一気にそれらが頭の中でぐるぐるとまわって、上手く言葉にできなくて。
「おはよう、ございます」
ぎゅっと抱き着いて、まず挨拶した。
「ああ、おはようクロウ」
くすくすと笑う振動が伝わって、ほっと息を吐き出す。じいちゃんの挨拶一つで少し、落ち着いた気がするから不思議だと思いながら、抱き着いていた腕を解いてじいちゃんを見上げる。
「なぁじいちゃん、あの、子供は……どうなったんだ?」
どこかの施設に預けられたんだろうか。それとも、病院か。そうならばいずれ、見舞いに行こうか。
帝国とかに運ばれてしまったのならば、もう会うこともないのかもしれないと思うと、胸がぎゅっとなる。
そんなオレを見て、じいちゃんは笑みを深くした。少し垂れ目がちの目じりが、たまらないほどに優しげになるじいちゃんの笑顔が、好きだ。
「まだ眠っているけれど無事だ、司教様にも手当をしていただいたしな」
「よかっ……た」
無事、なのか。それならば、いい。そう、思う。泣きたくなるくらいの、安堵。
「まったくお前は、年に似合わず自制が強すぎるんじゃないか?」
じいちゃんの言葉に、首を横に振る。
言葉の意味はなんとなくしかわからないけれど、オレはきっとそんなに褒めてもらえるような『いい子』じゃない。あの子供を助けるための無茶だって、褒められたものじゃないだろう。
「まったく、誰に似たんだか」
「じいちゃんにそっくりだとは、よく言われる」
じいちゃんに似てるといわれるのは、純粋に褒められているんだと思ってる。
「なら、似てるのなら、おまえならどうすると思う? クロウ」
ぽん、と頭を撫でられて、一瞬息が止まった気がした。
オレなら、どうするか。どうしたいか。自分の希望と願望が、じいちゃんのそれと重なっているんだとしたら。
――ごくり、と唾を飲み込む音が妙に大きく響いた気がした。
「……っ」
じいちゃんにくるりと背を向けて、廊下を走り出す。ついさっき駆け下りた階段を一段とばしで駆け上がって、与えられている自室とは反対側のドアをばたんと勢いのままに大きく開く。
客間として使っていた部屋。けれど、いつもはどこか人の気配がなく肌寒い客間は、今は導力灯が柔らかく部屋を照らし、暖炉には火が入れられて適温に温められている。
客用のベッドと、その傍らに立つ七耀教会の司祭様と。
シーツと毛布に守られてすやすやと眠る、黒髪の子供。
「……クロウ、目が覚めたのですね」
不躾にドアを開けたオレをみて、それでもにこやかに笑ってくださる司祭様に、ぺこりと頭を下げる。
「はい、オレはただ気が抜けて寝てただけですから」
「無茶をしてはいけませんよ? 市長もとても心配なさってましたし。冬の海は大人でもそれほど長時間潜ってはいられませんから」
お説教に、けれど反論できる材料をオレは持ち合わせてはいなかった。すいませんでした、と素直に謝る。
「えっと司教様、その、子供は」
じいちゃんは、無事だとは言っていたけれど。寝息はすぅすぅと、穏やかだけれど。
「今は先ほどまでのあなたと同じく、眠っているだけです。熱もありませんし、外傷もありません、あなたの処置が早く的確だったおかげでしょうね」
「お見舞い、してもいいですか?」
ドアがあっさりと開いたことも、司祭様の様子からも、面会謝絶というわけでもなさそうだけれど。一応、確認してみる。
「大丈夫ですよ」
許可を得て、息をゆっくりと吸って吐き出す。寝間着に裸足のまま、ゆっくりと客間へと足を踏み入れた。
寝台へと近づくにつれて、心臓がどきどきしてくる。
顔が、熱い。赤くなってるんだろうなぁ、とどこか客観的に思いながら、寝台に眠る黒髪を覗きこむ。ふくふくと柔らかそうな頬。微かに開かれてすぅすぅと寝息を立てている形のいい唇。伏せられた長く豊かな黒い睫毛。乾いた黒髪は、ぴょんぴょんと跳ねている。
ちゃんと、助けられたんだという実感に、じわりと笑みが浮かぶ。
「クロウ」
呼ばれて振り返れば、じいちゃんがぺこりと司祭様に会釈していた。
「まったく……急ぎ過ぎじゃないのか?」
笑って、頭を撫でてくれる。
「じいちゃん、この子供、ここにいるってことは」
「この子の実の親がわかって、この子がそちらに帰りたいというのならばその意思を尊重するつもりだがな」
「それは……うん」
実の親がいて、幸せに暮らせるのならば。少し……いや、かなりさみしいけれど――それでも納得するしかないだろう。
「この子が望むならば、うちで引き取ろうと思ってる」
「じいちゃん……」
そうなればいいな、とは。思っていたけれど。
「でも、いいのかよ……オレを引き取るのだって、大変だったんだろう?」
「おまえという子はまったく、もう少しくらい子供らしくあればいいのにな」
くしゃりと笑うじいちゃんに、多少の居心地の悪さを覚える。ごめんな、じいちゃんこんなかわいげのない孫で。
「1人引き取るのも2人引き取るのも、それほどの差があるわけじゃない」
「……ありがとう、じいちゃん」
うちに湧き上がる気持ちをどう伝えればいいのかわからず、浮かんだ言葉を口にすれば。じいちゃんは困ったように笑った。
「こちらこそ、ありがとうクロウ。おまえの祖父であることが誇らしいと思っているよ」
じいちゃんと二人で、眠る子供を見る。
「なあじいちゃん、この子供が溺れているのを見つける前に、奇妙な黒髪の男をみんなが見ていたんだ」
「聞いたよ」
「子供を助けるのに必死だったから、その黒髪の男を見つけることは出来なかったんだけど――」
あの男が、この子供の親、なのだろうか。それにしても、どうにも違和感がある。
「黒髪の男は、見つかってない――んだよ、な?」
じいちゃんは、『子供の素性はわからない』といっていたし。聞いた、ということはあの場にいたみんなから事情をすべて聞いているだろう。じいちゃんのことだから、そのあたりに抜かりがあるとも思わない。
「ああ、あの場から忽然と消えたように、誰も見ていないんだ。海の中も一応捜索してみたが何も見つからなかった」
「そっか……」
ならばすべては、この子供次第ということか。
早く、目を覚ませばいいのに。見た目よりも柔らかな黒髪を、そっと撫でる。
弟になるかもしれないんだと思うと、心のどこかがくすぐったいような、あったかくなるような気がした。
撫でるオレの手をむずがったのか、子供が身じろぐ。触らないほうがよかったのだろうかと引こうとした手は、微かに聞こえた声に一瞬止まった。
長い睫毛が揺れて、瞼がゆっくりと開かれる。覗いた眸は、海で一瞬だけオレを見据えた蛍星の赤ではなく、夜明け前の空のような紫がかった透き通った灰色。
「悪ぃ、起こしちまったか……?」
じっとその双眸に見据えられて、苦笑する。もっとゆっくりと、眠らせてやるつもりだったのに。つい、触れてしまったせいで安眠を妨害してしまったのかもしれない。
申し訳なさに眉を下げて笑えば、じっとオレを見据えていた双眸がふわりと笑う。その瞬間に、ふっと体が浮いた気がした。
「……へ?」
見た目にそぐわぬ力強さで、ベッドに寝ている子供に腕を引かれ、引き込まれたのだと。シーツに体が触れた感覚でようやく理解する。一気に縮められた距離に、ただひたすらに固まることしかできなくて。
呆然とするオレにぎゅっとしがみ付いた子供は、どこか満足そうににこぉっと笑みを浮かべたかと思うと、再びぱたりと瞼を閉じてすぅすぅと穏やかな寝息を立て始めてしまう。オレを、抱き込んだまま。
ことの顛末を見ていたじいちゃんと司祭様が、ふっと笑った。
「……っ」
くっそ。不覚すぎる。
「ちょうどいい、おまえもゆっくり休めばいいだろう、クロウ」
にっ、と口端で笑うじいちゃんを、恨めしげに睨み上げる。
「……ひとごとだと、思いやがって……」
「むしろ羨ましいくらいだがな」
くすくすと笑って、オレの頭を撫でてくれる。抱き着いてくる子供の体温も、じいちゃんの掌もひどく心地よくて、このまま本当に眠ってしまいそうになる。
「寝間着のまま走ってきてちょうどよかったな、クロウ」
「ううぅ……」
そのまま素直にじいちゃんに従って眠ってしまうのは、いかにも『子供っぽくて』気恥ずかしい気がする。無駄な反抗心だとわかってはいても、だ。不可抗力で気絶するならまだしも、他人の前で無防備に寝顔を晒すことへの、心理的な抵抗、だろうか。
むー、と現状の元凶となった子供をぎゅっと抱きしめる。冬の海の中ではあんなにも頼りなげだったのに。息すら、止まっていたくせに。
暖かくて、柔らかくて。息をしていて。ここにいるんだ、と思い知らされる。この子供がちゃんと生きていて――ちゃんと、助けられたんだと体感させられる。
「……起きたら、覚えてろよ」
睡魔に抗うこともできず、まだ名前も知らない、弟になる予定の子供を抱きしめて目を伏せる。頭からシーツをひっかぶっておけばよかったと思っても後の祭だった。
目を覚ますと、ひどく間近に紫灰の双眸がこちらを見据えていた。
「……うぉお!?」
寝ぼけた頭は、寝入る前の状況をそれほど正確には覚えてはおらず、イレギュラーな状況に体は逃れようと反応する。けれど、見た目よりずっと力強い小さな腕がそれをあっさりと拒む。
逃がさない、というよりはそれはまるで、縋るようで。
「……捨てやしねえよ」
せっかく、このオレが助けたんだ。ようやく寝ぼけから、すこし回転し始めた頭の中で、眠る前の状況を思い出す。
「あー、そういや、夕飯食いっぱぐれたな」
空腹を訴える胃袋に、あのまま寝入ってしまったことをかなり後悔した。そして、意識を目の前の子どもへと戻す。
「とりあえず、おはようさん」
にっと笑みを作って、ぽふんと頭を撫でてやる。跳ね癖のある黒髪は、見た目よりずっと柔らかな感触を掌へと伝えてくる。触り心地がよくて、堪らない。癖になりそうだ。
「おは、よ」
こてん、と首を傾げて。おずおずと、口を開く。こんな声をしていたのか。初めて聞いて、知ることができたことに、こっそりと心の中で空の女神に感謝する。
「逃げねえし捨てねえから、とりあえずまず起きるか」
ぽふりと頭を撫でてやれば、子供はこくりと頷いて身を起こす。
「どこか痛いところとか、苦しいところとか、ないか?」
ベッドに座った子供に訊ねれば、大丈夫だとほわりと笑った。
「そっか、よかった」
つられて笑えば、子供はぺこり、と頭を下げる。
「あの、たすけてくれて、ありがとうございます」
「……あー、」
小さいのにしっかりしているなとか、この状況なのに随分と落ち着いているなとか。言うべきことはきっといろいろとあるんだろうけれど。
心を過ったのは、どこか痛ましさに似た感情だった。
なるほど、じいちゃんがことあるごとにオレに「もっと子供らしくあれ」と言うのも、得心が行く。これは……どこか、さみしい気がするものだなと。周りの大人に、こういう思いをさせていたのか。まぁ、オレの場合は今更かわいげを身につけることなんてできやしないだろうけれど。
「オレだけじゃねえよ、司祭様やじいちゃんのおかげ、だ」
自嘲を押し流して告げた言葉に、子供はますます首を傾げる。
「ああ、そうだ。おまえ名前は?」
「リィン」
「リィンは、いくつだ?」
「ごさい」
リィンと名乗った黒髪の子供は、オレが聞いたことに、はきはきと答える。
「名前聞く前に名乗るべきだったな。オレはクロウ、クロウ・アームブラスト」
「くろ、ぅ……クロウ?」
少したどたどしく、確認するように口にするリィンに頷いてやる。
「リィン、おまえはどうして海にいたんだ? 両親は」
本題を訊ねれば、リィンと名乗った黒髪の子供は、うー? と首をますます傾げた。そのまま、大きな頭が取れて落ちてしまわないか少し不安になるくらいに。
「リィンのおとうさんとか、おかあさんは?」
50度近く傾げられた頭を支えてまっすぐに戻してやればリィンはまっすぐにオレを指さした。
「……へ?」
「う」
こくりと頷いて見せる。どれだけ考えても、意味が分からない。意思疎通がままならない。じいちゃんでもマーサでも司祭様でも誰でもいい、この子供の言葉の意味を解読して助けてくれ。
一体、なんなんだろうこの生き物は。街にも五歳くらいの子供は他にもいっぱいいるけれど、ここまで話が通じない子供はいない気がする。
「……オレがお前のおとうさん、とか?」
親ときいてオレを指さした瞬間に思った、まさかなと思いながら口にした疑問に、リィンはこくこくと頷く。その動きにあわせて、跳ねた黒髪がひょこひょこと揺れた。
「……オレ、まだ七歳なんだけどな」
ひきつった笑いが漏れる。子供が子供の親になんか、なれるはずがないじゃないか。
「クロウ」
うれしそうに笑って、ぎゅーと抱き着いてくるリィンが可愛くないわけじゃなくて。昨日初めて会ったばかりだというのに、こんなに無邪気に慕われれば悪い気なんてするはずもない。オレができることならリィンのためになんだってしてやろうと思うけれど。
リィンの父親になってやることがオレにできるかどうかと考えると、どうだろう。
無責任な真似は、したくない。リィンを大切に思うからこそ。
兄だとか、親代わりだとかはともかく。
ぽふぽふと撫でてやりながら、どうしようかと苦笑する。
「クロウ、起きていたのか」
「じいちゃん」
リィンに抱き着かれたまま、身動きが取れないオレにじいちゃんは笑って部屋に入ってきた。今朝は司祭様はいないみたいだ。
じいちゃんといっしょに、マーサがトレイに朝食を乗せて運んできてくれた。
俺以外の人を初めて見たかのように怯えてくっついてくるリィンを撫でて宥めてやる。
「じいちゃん、こいつの名前はリィン、五歳らしい。親は……」
「クロウ」
そういってぎゅっと抱き着く手に力を込めてくるリィンを見遣る。
「――オレ、らしい」
司祭様は、鳥の雛は、卵から孵って最初に見たものを親だと思い込むという話をしてくれた。リィンのオレに対する不可解なほどの信頼や執着もおそらくは、そういう類なんじゃないかと。
司祭様とじいちゃんを交えて改めてリィンから聞けば。年と名前以外、リィンは何も覚えていなかった。
海で溺れるまでの記憶、すべて。名前以外は、ベッドの上で目が覚めて隣で眠っていたオレを見つけたところから始まっているらしい。
それは、どんな気分なんだろうか。
想像もつかないけれど。何も知らない、何もわからない状態で放り出された時に、助けてくれた相手がいるならばその相手に縋るのは、わからなくもない。
それだけの信頼に、オレが応えていけるんだろうか。
「クロウ?」
オレの不安が伝染したみたいに、リィンがオレの服の袖をぎゅっと掴む。
リィンは、初めて会ったときからずっと。射抜くほどにまっすぐにオレを見る。その視線に、恥じることなくまっすぐに向き合えるようにありたいと思った。
姿勢を正して。ゆっくりと大きく深呼吸する。
「どうする? クロウ・アームブラスト。お前は、リィンのすべてを背負う覚悟はあるか?」
じいちゃんの問いに、首肯する。
決めてしまえば、あとは前に進むだけだ。
「えっと、さすがに籍とかはじいちゃんの養子扱いじゃないと無理だと思うけど。じいちゃんには本当にいっぱい迷惑かけてしまうと思うけど」
今でも、オレはじいちゃんの世話になりっぱなしだけれど。それでも。
「リィンはオレが、守ります」
だから、許してください。お願いします。
そう頭を下げる。
子供のたわごとでしかないことは、誰よりも俺自身が一番思い知っている。養われている身で、馬鹿げたことを言っている自覚もある。何ができるわけでもない。心意気だけだ。
そんなオレを見ていたらしいリィンも、オレの真似をして「おねがいします」とぺこりと頭を下げる。そのままころりとでんぐり返ししてしまうんじゃないかと思うほどに深々と。
「なんというか、娘を嫁にやる気分と息子が嫁を連れてきた気分だな」
「誰が嫁かは、聞かないでおく……」
しみじみと感慨深げに呟くじいちゃんをじっとりと見れば、くすくすと笑われた。
「おまえが孫であることは変わらないからな、二人とももう少しじじいを頼ってほしいもんだが」
「それはもう、頼りにしてます、じいちゃん」
というか住む場所も生活もすべて、じいちゃん頼みだし。オレができることの方が少ないくらいなのに。
「ようこそ、リィン。こんなに早く曾孫の顔を見ることになるとは予想外だったが。歓迎するよ」
苦笑と、けれどどこか嬉しそうなじいちゃんにつられるように笑えば、隣でリィンが「たよりにしてます」とこてんとお辞儀する。
じいちゃんと顔を見合わせて、二人して思わず吹き出すのをリィンは嬉しそうに見ていて。こんなのもいいなとか、心がふわりと温かなものに満たされる気がする。
「二人とも朝食、冷めてしまいますよ。クロウ坊ちゃん、リィン坊ちゃん」
マーサの声に、忘れていた空腹を思い出す。ぐーと腹が鳴るのは同時だった。
「お二人とも昨日夕飯も召し上がられてませんし、おなかに優しいミルク粥にいたしました」
いつもならお行儀が悪いと怒られるだろうベッドでの食事は、病み上がりということで許されているんだろう。考えてみれば、じいちゃんちに引き取られてから風邪ひとつ引いたことがないから、こうして病人らしく扱われるのは初めてかもしれない。ちょっとだけ、わくわくしてしまうのは不謹慎だろうか。
サイドテーブルに置かれた粥鍋の蓋を開ければ、温かくやわらかな湯気がふわりと上がる。どこか甘いような旨そうな香りが、部屋へと広がった。
再び、ぐるるとお腹が鳴る。ごくり、と唾を飲み込んだのは、オレかリィンかどちらだったんだろう。
苦笑して、匙でそっと掬ってふーと冷ます。
「ほら、リィン、あーん」
「あー」
ことのほか素直にかぱっと口を開いて粥を食べる様は、やはりどこか雛めいている。ここまでオレに対して警戒心がないと、大丈夫なんだろうかと少し不安になる。その分、オレがしっかりすればいいんだろうけれど。
美味しそうに、幸せそうに目を細めて食べる姿をみているだけで、こちらもほわほわと幸せな気分になる。
「おいしい、です」
リィンの素直な感想だとか仕草だとか表情だとかが、かわいくてたまらないというようにマーサが笑う。オレにはそんな顔見せたことないくせになぁ。
まぁ、オレと違ってリィンはかわいいから、マーサの気持ちもわからなくもないけれど。
鍋のお粥をぺろりと平らげたリィンを見て、司祭様はもう大丈夫でしょうと太鼓判を押してくれた。
「今日一日は二人ともゆっくりと休んで、明日の日曜学校へはサボらずに来るんですよ」
「……はい」
正直なところ、めんどくさいという思いがないわけではないけれど。
くびをこてんと傾けるリィンを見て苦笑する。
「日曜学校へは……まだ、行く年じゃないか。5歳なら」
ぽふぽふと髪を撫でてやれば、ますます傾きが大きくなる。
「おれ、クロウといっしょにいきたい」
じーっと、こちらを見たまま。
「いいですよ、その方がいろいろと安心できそうですしね」
司祭様にいたずらっぽくウィンクされて、苦笑する。そんなにさぼりまくったわけじゃねえとおもうんだけどな。オレが思ってる以上に、大人からのオレの評価は悪ガキなんだろう。
自覚がないわけじゃないから、ただ苦笑しかでない。
「つまり今日はゆっくりとさぼっていいんだよな?」
にぃっと笑みを作って返せば、本当にゆっくり休むんですよと返された。
わかってるよ。オレよりも、リィンを休ませてやらないと。腹が膨れたからか、あれだけ寝たのにまたうつらうつらし始めているリィンの口元を布巾で拭ってやりながら、これから先のことに思いを馳せた。
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