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「結婚、しよう」
抱えきれないほどの薔薇の花を花束にして。かけられた言葉に硬直する。そもそもまだ結婚なんて年齢からしても早いだろうし。そもそも。
「ちょっと待て、俺もお前も男だろ」
広い世界には同性婚を認めている国もあるのかもしれないけれど、少なくともこの国においてはそれは一般的に認められているものではない。
「昔、偉い坊さんが禁じられてた兵士の結婚を認めてくれたんだってさ。そのせいで時の権力者から消されたらしいが」
「お前ってそういうことばっかり詳しいよな」
クロウ、と。
そう名を口にしようとした瞬間。世界が切り替わった気がした。
「……夢、か」
背中に感じるのは、固い鉄の感触。視界いっぱいに広がるのは、澄み切った青空で。
カレイジャスの甲板でうっかり転寝してしまっていたらしい。ふるりと震えて、改めて体が冷え切ってしまっていることに気付いた。導力結界で守られているとはいえこの季節にこの場所はあまり昼寝むきではないだろう。
だからだろうか。
あんな、突拍子もない夢を見たのは。
トールズ士官学院で出会って。ミラは巻き上げられるわギャンブルに誘われるわ。それでいて面倒見はやたらとよくて子供受けのいい、先輩。
それは偽装だったといわれて今現在は敵対している相手。それがなぜ、夢の中であんなことを言い出したんだろうか。
まさかあれが俺の深層心理で、俺が無意識に望んでいることなんだろうかと考えて、一人ふるふると頭を振る。
確かに殴って連れ戻したいと思ってるけれど。けれどそれがどう曲解すれば結婚なんて単語に繋がるのか。
きっとこの場所のせいかと目を眇めてゆっくりと立ち上がった。妙な姿勢で眠っていたせいか、体の節々が痛みを訴えている。一番痛いのは頭かもしれない。
似合わないにもほどがありすぎて、笑いもできない。
そう考えて、目を伏せて自嘲する。そう言い切ることができるほど、あの男のことを知っているわけじゃない。
自分の知るクロウ・アームブラストなら薔薇の花束なんて買うミラも持っていないだろうし、《C》が薔薇の花を買う姿もあんなセリフを言う様も想像がつかない。
「……悪い夢を見ただけ、だ」
吐き捨てて、ブリッジへと戻る。船内は暖房が効いているのだろう、熱く感じる程だ。
それなりに見慣れてきた光景が、けれど今日は少し違っていた。
「……何をしてるんですか」
殿下、という言葉を飲み込む。
以前見かけた音楽教師とやらの、髪を解いて白いコートを羽織った姿でクル―たちに薔薇の花を一輪ずつ配って歩いている。
「愛と真心を配っているんだよ」
「……そうですか」
「もちろん君にも僕の愛を」
「結構です」
正体を知っているからこそ、恐れ多いというか受け取るわけにもいかないだろう。まったく、ミュラーさんはどこにいったんだろうあの人がいなければこの人はどこまでも脱線していくんじゃないだろうか。
半眼でねめつければ、つれないなと笑われる。
「それとも心に決めた相手がいるのかな」
その言葉に、先ほど見た夢を思い出してしまって首を横に振る。
「命短し恋せよ乙女」
「乙女なんていませんけど今この場に」
はぁ、と嘆息する。
「いいじゃないか、青春は謳歌するべきものさ」
「礎たらなくてもいいんですか」
「青春を謳歌してこそ世の礎となりえる人材に育つんじゃないかと僕は思ってる」
そう言って笑う皇子の言葉に、クロウと別れた際の会話を思い出してしまって目を伏せた。思いのほか謳歌してしまうくらいに、学院での生活は心地よかったんだろう。クロウにとっても。
それは多分、この人のおかげでもあったんだろう。
愛と真心はたしかに、すでに受け取っている。
けれど、なんだろう。素直に感謝するのはすこし引っかかるというか。
視線を逸らしたことに気付いたのか、ふわりと頭を撫でられて。どうしたらいいのかわからなくなる。
エリゼやアリサやフィーの頭を撫でたことはあっても、俺は撫でられる側ではなかったから。
「君にばかり負担を強いて、申し訳ないと思ってるんだ」
「いえ……それが俺の役目ですから」
白でも、黒でもなく。そのどちらも内包する混沌。
どちらにも所属することを許されない、中途半端な立ち位置なんだろう。俺は。
「オリビエさん……少し、カレイジャスから降りていいですか」
「ああ、構わないよ。バイクも用意させようか」
「お願いします」
頭を撫でられたまま、ぺこりと下げればしょうがないなという様に笑われた。甘やかされてる自覚は、ある。
与えられた時間は、2時間程度。ついでに買い出しをと言われてメモまで渡されてしまった。俺の我儘なのに、そう思わせないように気遣ってくれてるんだろう。ありがたく、その厚意を利用させてもらう。
今カレイジャスに乗っている人数はそれなりに多いから、頼まれたものもそれなりに多くなりそうだ。
地図と見比べて、一番近い街へと向かう。
なんとなく。飛行艇は苦手だ。高いところが怖いとか何故鉄の塊が空に浮かぶのかとかそういうことじゃなくて。
――ルーレで撃ち落とされた飛行艇を、思い出してしまうからかもしれない。
「……どれだけ影響受けてるんだよ、俺」
買い出しメモに目を通しながら髪を掻き上げる。頭痛は、少し増した気がした。あんな場所で不用意に寝入ってしまって、風邪でも引きかけているんだろうか。自業自得だとはいえ、風邪ひいて寝込んでいる場合じゃないこともわかっている。
悪化させる前に、なんとかしないと。
頼まれた品と、ついでに蜂蜜とカモミールを買い込む。
あらかた買い物を終えてみれば、両手は荷物で塞がっていた。まだ学院で生活していたころ、学院祭の準備をするトワ会長の手伝いでトリスタで買いだしていた時みたいだと思いだして苦笑した。いまは、俺しかいない。
けれど、空はあの日とよく似た、きれいな茜色に染まっていて。
じわりと滲んだ視界に、奥歯を噛みしめて顔を伏せた。
本格的に体調が悪くなってきているのかもしれない。体調が悪ければ心理的にも弱ってしまっても仕方がないだろう。
さっさとカレイジャスに戻って、ハーブティーでも入れて体を温めて休もう。
そう決めて歩き出した瞬間、不意に後ろから回された手に口を押えられて目を見開く。
それほど油断していた自覚はなかったけれど。思っていたより体調不良なのが響いていたんだろうか。背後を取られたことにまったく気づかなかった。それだけ気配を消すことに慣れているのか。逃れようと思って、一瞬ためらってしまったのはカレイジャスのクル―たちから頼まれた両腕の荷物のことを考えたから。折角、優しいみんなが頼んでくれたものを無責任に投げ捨てたくなくて。
その一瞬の逡巡が、命とりだったんだろう。
バシッと全身に雷を喰らったような衝撃が走った。暗くなる視界の端で、買い出しの荷物が石畳に落ちる。
ごめん、みんな。ごめんなさい、オリヴァルト皇子殿下。
声にも出せず、ただそう思うことしかできず。俺の意識は落ちて行った。
見覚えのない、薄暗い倉庫めいた景色に、目を細める。何故こんな場所にいるのかと考えて、意識を失う前のことを思い出して嘆息した。
誰かに殺されるかもしれない可能性は考えていた。それはなくても、正規軍や領邦軍に捕らえられることも。
まさか、こんなふうに拉致されることなんて思いもよらなかったこともある。
俺なんかを浚ったところで利用価値などないだろうに。
身を起こそうとして、両腕は後ろ手に縛られ脚もぐるぐるとロープが巻き付けられていることに気付く。それでも芋虫のように身を捩って上体を起き上らせれば、ずきりと頭に痛みが走った。ますます悪化しているそれに眉根を寄せる。カレイジャスの甲板の床よりこの倉庫めいた部屋の床は冷えていて体が奥底から冷えてしまっている気がする。そのくせ体内はどこか嫌な感じに熱を持っている気がする。
倉庫の埃っぽさのせいか喉が、ひどく渇いて。
どうするべきかと思案を巡らせる。まだ、頼まれた荷物をみんなに届けていないし、アンゼリカ先輩から譲り受けたバイクも店の前に止めたままだ。性質の悪い不良とかに悪戯されていたりしないだろうかと心配になる。
なんとか誰かに連絡が取れないものか。腰のポーチの重みからARCUSは奪われていないことはわかっても、縛られた状態で取り出して通信を送ることもできないしそもそも帝国内でも通信環境がそこまで完全に整っているわけでもない。
それでも、これを奪われていないということは。
軍や西風や結社では、ないのだろう。そんな雑魚といっていい相手に後れを取ったという事実に、頬が引き痙る。
「……」
どうにかして逃げないと。そう、呟こうとして。言葉が音にならないことに気付いた。声を出そうとしても、喉の痛みとひゅーという吐息にしかならない。
自分で思っていた以上に風邪の症状は進んでいるらしい。
まぁ、ある意味では好都合なのかもしれない。俺を捕まえた敵がなにをもくろんでいるのかは知らないけれど、拷問されても機密を口にすることもないだろうから。
ある意味馬鹿げたことを考えて自嘲じみた笑みを浮かべて、そしてこちらへ近づいてくる足音に気付いた。
ドアが開いて、二人の男が部屋へと入ってくる。見覚えはない。雰囲気や身に着けているものは、それほど洗練されていないようだし動きも隙だらけだ。そのくせ、どこか荒んだ空気。
猟兵、というのもおこがましいレベルの雑魚。先ほど考えていた正体そのものに、嘆息する。
「こんな寂れた田舎におまえみたいな大物が護衛もなしにふらふら出歩いてるなんてなぁ」
告げられた言葉の意味が分からず、首を傾げる。
大物? 何がだ?
「しかもこんな簡単に手に入った」
「噂じゃ侍だか忍者だかって聞いてたけどただのガキだよな、こうしてみれば」
うるさい。俺がただの子供だなんてことくらいとっくに自覚してる。なら、そのただの子供を拐かしたお前らはなんなんだよ。
うんざりと睨み付ければ、前髪をひっつかまれた。禿たらどう責任とってくれるんだ。
「そういう反抗的な態度はよくないなぁ。いくらリィン・シュバルツァーとはいえ一人でこの状態で俺らに勝てるわけねえことくらいわかるよな」
この程度の小物、風邪さえひいてなければ脅威でもないだろう。言い訳するようで癪だけれど。四肢も声も自由にできず、こんな奴らにいいようにされている自分の弱さと迂闊さが心底腹立たしい。
それになんで名前まで知られているのか。
貴族派や革新派から賞金でもかけられているんだろうかと思うと猶更うんざりした。
どうやってこいつらに反撃してこんなところから逃げ出すべきか。縛られた腕を動かせば、ロープがきつく食い込んで皮膚が擦れる。関節を外せば抜け出せないこともないだろうけれど、そうすればもとに戻る保障もない。今この時期にそれをするメリットとデメリットを秤にかければ、あまりいい手段ともいえないだろう。
誰かが助けに来てくれるのを待つかと考えて、冗談じゃないと即座に脳裏で否定する。助け出されるのを待つお姫様なんてガラじゃない。
ヴァリマールを呼んだら、ここまで来てくれるだろうか。けれど生憎声は風邪のせいで潰れている。それに多分距離的に離れすぎてるだろう。
次から外出するときには、ナイフの二本くらいは隠し持っておくべきだろうか。
頭痛と悪寒のせいで、思考はひどく散漫で八つ当たりめいたことばかり浮かぶ。
あの力を使えば、こんなロープを引きちぎることくらいたやすいんじゃないだろうか。
それに思い至った時。
部屋の外が急に騒がしくなった。
「なんなんだ一体」
「ちょっと様子見てくる、お前はこいつを見張ってろ」
誘拐犯の片割れがドアを開けた瞬間、その体はドアの外へと引きずり出されていた。何か質量の大きなものがぶつかる音とか折れるような音だけが響く。あと、悲鳴。
縛られたまま、残った男を見上げれば、その顔色は蒼白といっていい状態で脂汗に塗れていた。
本当に、この程度の奴に捕まったことが情けなくて笑えてくる。
ドアの外に来た何者かが、俺にとっての敵か味方かなんてどうでもいい。まずは、目の前の障害を取り除いて、そして買い物をし直してバイクにのって帰らないと。
意識が切り替わる感覚も、左胸の痣が疼く感覚もなく。ただ視界が赤く染まる。体に巻きつくロープは、軽く腕を振れば容易く千切れて重力に従って床に落ちた。
「ば、化け物……」
馬鹿馬鹿しさに、目を細める。
他人を自分の利益のために浚うような輩のほうがよほど化け物だろうに。縛られていた腕の調子を見ようと手首を振るえば、見張り役だったらしい男は壁際へと勝手に後ずさっていた。
こんな男を殴ることも時間の無駄だろう。
さっさと買い物をし直そうとドアを開ければ、腕を掴まれて引かれた。そういえば、何か来ていて一人そいつにやられたんだっけと思い出す。正直体がだるいからあまり戦闘はしたくないけれど、捕まりたくもないし。捕まるわけにもいかない。
さっきドアから引きずり出された男が受けただろう衝撃に備えて構えれば不意に抱きしめられた。
何なんだ一体。それとも、殿下かトヴァルさんか、Ⅶ組の仲間が俺を助けに来たんだろうか。それにしては相当荒っぽそうな音だったからてっきり別の勢力かと思っていたのに。
ああ、やっぱり頭がうまく働かない。思考がまとまらない。
俺を抱きとめる誰かを見上げようとすれば、不意に頭を撫でられた。
今日はやけに撫でられる日だなと苦笑する。
「……すげぇ熱」
呆れと苦笑の混じった声に、目を見開く。
よく知っている声、だ。知っていた、というべきか。
何故、という言葉は、声にはならなかった。
「おまえなぁ、なんでこんなとこで拉致されてんだ」
おまえこそ。何故こんなところにいるんだ。
クロウ――
呼ぼうとした名は、ただ息の漏れる音にしかならない。ただ、唇が刻んだ名だけは通じたらしく黒衣の青年はその朱眸に笑みを浮かべた。
「どこの人魚姫だよ。大人しくて静かなおまえってレアなもん見た気がする」
どんな謂れようだ。普段の俺はそこまでうるさく騒いでいるように見えたんだろうか、この男には。
むっと目を眇めれば苦笑一つ返される。
「ちゃんとお利口に静かにするときは静かにしてるんだが、なんだ。しっぽがあったら全力で振ってそうな雰囲気?」
人を犬扱いするそのセリフに、頭痛がさらに悪化した。
本当に。どうしてこんなところでクロウに会うんだ。自分が捕らわれたことは棚に上げるとしてもこんな、組織というにもとるにたらないだろう輩のために帝国解放戦線のリーダーが出張ってくる必要性もわからない。
偶然というには、この男とは縁がありすぎる気がする。
それに。
あんな夢を見るくらいには、無意識に意識してしまっているんだろうか。
ありえない、と思いながら。どこかで期待してしまっているのならば確かに殿下の言うとおり恋する乙女なのかもしれない。乙女じゃないけど。
「……口に出さなくても考えてること顔に出過ぎだな」
冷静にしてきされて、睨み上げればそんな潤んだ目で睨まれても怖くもねえと返された。
意味が分からない。
嘆息すれば、接している部分からクロウがくつくつと笑う振動が伝わってくる。
本当にお前はなんでこんな場所で、こんな出会い方をして。そのくせそんな上機嫌に笑っていられるんだ。
現状、敵対しているといっていいだろう。お互いに、譲れないものもあることも頭ではわかっているし、殴ってでも連れ戻す覚悟は何も変わっていないけれど。
学院生クロウ・アームブラストはただのフェイクで存在しないというくせに。こうして俺の前に現れるお前はどこまでもクロウだ。
そう考えて、けれど少し違う部分もある気がした。
目の前の黒衣の青年には、クロウがいつも冗談めかしてミラが足りないという貧乏臭さは感じない。この男が動かしているミラは、50ミラを返そうとして10ミラしかないから待ってくれというような学生の懐事情とは違うだろう。
それこそ、薔薇の花束くらい買えるくらいにはミラの匂いがする。
「だからそうやって妙な事考えるのやめろって」
ぽふんと頭を軽く叩かれて、思考が中断される。
うるさい考え事してるんだから邪魔するな、そう思って再び思考へと戻ろうとする。何を考えていたんだっけ。クロウのことだったか、ミラのことだったか。
「わかったわかった、考えるのは邪魔しねえけど、お前をどこへ送ってやればいいかだけ教えてくれ」
「……?」
送る?
その言葉に、首を傾げる。
「お前自覚あるかないかわからんが、すごい熱だぞ? こんなところにいちゃ治るもんも治らんだろ」
確かに風邪気味で体調不良なことは自覚しているけれど。そこからなぜ『送る』になるのか。
クロウにとっては俺は計画の邪魔にしかならない敵だろう。なぜそんな俺をわざわざ送るとかそんなことになるんだ。帝国解放戦線のリーダー様が。直々に。
意味がわからない。
「もういい、勝手に考えてろ。とりあえず街に戻るぞ。……歩けるか?」
もちろん歩けるとこくりと頷く。歩けないと答えたら、背負われるか抱き上げられるかして運ばれるんだろ。そんな恥ずかしい真似されても困るんだ、俺は。
どうしても、あの夢を意識してしまいそうで。
掴まれた右腕を強く引かれて、着いて歩く、というより半ば駆け足になる。身長差と足の長さの差が恨めしい。クロウもクロウだ。熱があるだの送るだの言うくせに、歩幅を俺に合わせるくらいしてくれたっていいんじゃないだろうか。
半ば八つ当たり交じりに思えば、クロウが急に立ち止まった。駆け足状態だった俺が急に止まれるはずもなく、急に止まったクロウの背中に強かに顔面からぶつかってしまう。頭だけじゃなく鼻まで痛くて、泣きそうになる。これ以上低くなったらどうしてくれるんだ。
「悪い」
さして誠意の感じられない謝罪に、半眼で睨みつける。
「お前導力バイクに乗ってきたのか……」
クロウの視線を追えば、その先に確かにバイクがあって。こくりと肯定の意味で頷く。バイクに気を取られて足を止めたのか。
けれど、盗まれたりいたずらされたりしてなくてよかったとほっとする。
「ばぁか。ジョルジュ渾身の盗難防止装置つきだぜ? ゼリカかお前か俺以外が乗ることはゆるされねえよ」
「……」
そんなに、俺は考えていることが顔に出ているんだろうかと眉を寄せる。
「ああ。わかりやすい。……腹の探り合いしなくていいっていうのは居心地いいな」
「……」
それはそれでどうなんだろうか。俺とクロウは、敵対しているはずだろうに。
「んな難しい顔して悩むことはないだろ。病人相手に本気出すほど落ちぶれちゃいねえよ。馬鹿にすんなって」
「……」
それはつまり病人だから手加減しているということなんだろうか。それはすこし――ムカつく、気がする。
「はいはい。それでお前、どうせ買い出しかなにか頼まれてるんだろ。見せろ」
きれいに全部言い当てられて、コートのポケットから買い出しメモを取り出せばひょいと奪われた。
「……お前相変わらずお人よしすぎんだろ」
お前にだけは言われたくないと視線を逸らす。
俺の腕を掴んだまま、クロウはバイクを止めている店に入っていった。さっき一度買った商品をもう一度買う。品切れしてなくてよかったと少しほっとした。
俺が両手で持った荷物を容易く片手で持って店をでる姿に目を細める。そこまで身長も体格も違う気がしないのに。
「んー、お前、手貸してみろ」
また考えを呼んだのか、クロウがそう言ってくる。掴まれていた手をそのまま差し出せば、クロウも掌を合わせてきた。
手の厚みも、指の長さも違う。
鍛え方や武器の差だけじゃなく、元々の体格の差まであればどうしようもないんだろうか。
「お前はお前の手で掬えるだけ救えばいいだろ」
でも、それならば。指の隙間から零れ落ちてしまう。自分を万能だなんて思うこともできないけれど。それでも。
「やれるだけやってみりゃいい。足掻けるだけ足掻け」
だからなんでそれをお前が言うんだ。そう思うのに。
どこか、素直に。クロウの言葉が自分の中に沁みわたっていく。
「俺を殴ってでも連れ戻すんだろうが、お前は」
ああ。そうだった。
それこそ今すぐにでも殴り飛ばそうか。
「それは遠慮する。言っておくが俺は別にお前に殴られたいって言ってるわけじゃないからな?」
そうなのか? 自分から言い出すからてっきり殴られに来たのかと。
見上げて笑えば、ひどく柔らかく、笑い返されて。じくりと左胸の痣が痛んだ気がした。
「……ちょっとここで荷物持って待ってろ。誰かにほいほいついていったり浚われたりすんなよ?」
二度同じ目にあうつもりもないと睨めば、苦笑される。
ずいぶんと馴染んだ気がする導力バイクに持たれて、歩いていくクロウを見送る。隙のない立姿とか、すこしくすんだ、けれど陽光の元では眩いくらいの灰銀の髪だとか。つい、その背中を目で追ってしまう。年齢の差としてはたったの二歳違いだというのに。クロウならば簡単に浚われることもなければ、ガキ呼ばわりはされないんだろう。だからこそリーダーなんて立場に収まっているんだろうし。
クロウの面倒見の良さなんか、身をもって知っている。
明確な敵であるはずの俺にすら、風邪だとかそんな理由で優しく接してくるのは。
鼻腔を擽る、甘い香りに視線を上げれば、いつの間に戻ってきたのかクロウが横に立っていた。いつもならば感じる気配がまったく読めないのは、体調が悪いせいだろうか。
そのせいで酷い目に合ったと思い出せば、すっと目の前にカップが差し出される。
滑らかな赤褐色の液体から、温かそうな湯気が立ち上っている。
「……?」
「ホットチョコレート。奢ってやるからありがたく飲んどけ」
ああ、やっぱり今のクロウからは貧乏臭さは感じないなと思いながらカップを受け取った。学院生クロウ・アームブラストのフェイク部分って、金がないふりをしてる部分くらいなんじゃないだろうかと思う。
風邪で腫れて渇いた喉に、甘い液体が柔らかく沁みわたっていく気がする。
「お前なんか失礼なこと考えてただろ」
何がだ。むしろ前向きに検討しているだろ。総合評価としてはやっぱりクロウはクロウだなという結論に落ち着く。
隣を見上げれば。クロウも何か飲んでいて。けれどそちらはチョコレートの甘い香りはしない。
「コーヒーだが……こっちの方が良かったか?」
問われて少し考えて、首を横に振る。コーヒーも紅茶も嫌いじゃないが、今日はこの甘さと暖かさが心地いい。
ほわほわとホットチョコレートの湯気と香りを堪能していれば、不意に脚に触れられて隣のクロウを睨み上げた。
「悪いがそれ、ちょっと貸せ」
「……」
貸してほしいなら先に言えばいいだろうになんで触る必要があるんだ。
ホットチョコレートのカップを片手でもって、もう片方の手でポーチからARCUSを取り出して渡す。
「……お前なぁ、もう少し危機感持てよ。敵にこれ渡していいと思ってるのか」
「……」
そんな危機感があれば、買い出しにも付き合わせることはしないし、元々このホットチョコレートも受け取らないと思うんだけど。その時点で察しろ。無駄に頭いいくせに。
睨む先でクロウは慣れた仕草でARCUSを操作する。当たり前だろう、俺たちよりも一年長く、この型の戦術オーブメントと付き合ってきたんだこの男は。
『リィンくんかい? ずいぶん遅いけど何かあったのか』
「おたくの大切なわんこなら預かってる。無事に返してほしかったらさっさと迎えに来てやれ」
また犬扱いかと嘆息する。
『その声は、《C》か』
「ご明察」
『……君があの子を拾ったのならそのまま連れ去るかと思っていたよ』
「そうしてほしいならそうするが。――まだ、そちらに必要だろう? 灰の騎神の力は」
『その役目を終えればいつでも迎えにくるつもりか?』
「さあな」
応える義理はないとでもいうように、ARCUSの通信を切る。
どういうつもりなんだ。どう考えても敵対する組織のリーダーの取るべき行動ではないんじゃないだろうか、これは。
「サンクス」
返された戦術導力器をポーチにしまいながら視線だけで問う。
「んー」
視線が逸らされて。目を眇める。なんとなく面白くない。
「……おまえ、今日が何の日かわかってんのか?」
「?」
何か、特別な日なんだろうか。ユミルにいたころからそういったことには疎かったし、トールズに通い始めても十月までくらいしかまともに過ごせなかったから慣習にはあまり通じていない。
「……とある国じゃ、今日最初に会った娘を恋人にするんだってな」
言われて、首を傾げる。今日、どこかで女の子と会ったっけ? 記憶を浚ってみても、殿下と雑貨屋の店主と、あの誘拐犯二人とクロウしか思いつかない。
まぁ、まだ内戦も落ち着いていない状況で恋人なんて言ってられないから好都合かもしれない。
そう考えて、ふと首を傾げた。
なぁクロウ。夢で逢うのはカウントにはいるのか?
そう問いかけようと振り返れば、ついさっきまでそこにいた黒衣の姿は消えていて。俺の手には少しぬるくなったホットチョコレートと、クル―たちへの荷物だけが残っていた。
それと、遠くから俺を呼ぶ声。あれから速攻でこちらに向かったんだろうか。苦笑して、答える様に手を挙げた。
抱えきれないほどの薔薇の花を花束にして。かけられた言葉に硬直する。そもそもまだ結婚なんて年齢からしても早いだろうし。そもそも。
「ちょっと待て、俺もお前も男だろ」
広い世界には同性婚を認めている国もあるのかもしれないけれど、少なくともこの国においてはそれは一般的に認められているものではない。
「昔、偉い坊さんが禁じられてた兵士の結婚を認めてくれたんだってさ。そのせいで時の権力者から消されたらしいが」
「お前ってそういうことばっかり詳しいよな」
クロウ、と。
そう名を口にしようとした瞬間。世界が切り替わった気がした。
「……夢、か」
背中に感じるのは、固い鉄の感触。視界いっぱいに広がるのは、澄み切った青空で。
カレイジャスの甲板でうっかり転寝してしまっていたらしい。ふるりと震えて、改めて体が冷え切ってしまっていることに気付いた。導力結界で守られているとはいえこの季節にこの場所はあまり昼寝むきではないだろう。
だからだろうか。
あんな、突拍子もない夢を見たのは。
トールズ士官学院で出会って。ミラは巻き上げられるわギャンブルに誘われるわ。それでいて面倒見はやたらとよくて子供受けのいい、先輩。
それは偽装だったといわれて今現在は敵対している相手。それがなぜ、夢の中であんなことを言い出したんだろうか。
まさかあれが俺の深層心理で、俺が無意識に望んでいることなんだろうかと考えて、一人ふるふると頭を振る。
確かに殴って連れ戻したいと思ってるけれど。けれどそれがどう曲解すれば結婚なんて単語に繋がるのか。
きっとこの場所のせいかと目を眇めてゆっくりと立ち上がった。妙な姿勢で眠っていたせいか、体の節々が痛みを訴えている。一番痛いのは頭かもしれない。
似合わないにもほどがありすぎて、笑いもできない。
そう考えて、目を伏せて自嘲する。そう言い切ることができるほど、あの男のことを知っているわけじゃない。
自分の知るクロウ・アームブラストなら薔薇の花束なんて買うミラも持っていないだろうし、《C》が薔薇の花を買う姿もあんなセリフを言う様も想像がつかない。
「……悪い夢を見ただけ、だ」
吐き捨てて、ブリッジへと戻る。船内は暖房が効いているのだろう、熱く感じる程だ。
それなりに見慣れてきた光景が、けれど今日は少し違っていた。
「……何をしてるんですか」
殿下、という言葉を飲み込む。
以前見かけた音楽教師とやらの、髪を解いて白いコートを羽織った姿でクル―たちに薔薇の花を一輪ずつ配って歩いている。
「愛と真心を配っているんだよ」
「……そうですか」
「もちろん君にも僕の愛を」
「結構です」
正体を知っているからこそ、恐れ多いというか受け取るわけにもいかないだろう。まったく、ミュラーさんはどこにいったんだろうあの人がいなければこの人はどこまでも脱線していくんじゃないだろうか。
半眼でねめつければ、つれないなと笑われる。
「それとも心に決めた相手がいるのかな」
その言葉に、先ほど見た夢を思い出してしまって首を横に振る。
「命短し恋せよ乙女」
「乙女なんていませんけど今この場に」
はぁ、と嘆息する。
「いいじゃないか、青春は謳歌するべきものさ」
「礎たらなくてもいいんですか」
「青春を謳歌してこそ世の礎となりえる人材に育つんじゃないかと僕は思ってる」
そう言って笑う皇子の言葉に、クロウと別れた際の会話を思い出してしまって目を伏せた。思いのほか謳歌してしまうくらいに、学院での生活は心地よかったんだろう。クロウにとっても。
それは多分、この人のおかげでもあったんだろう。
愛と真心はたしかに、すでに受け取っている。
けれど、なんだろう。素直に感謝するのはすこし引っかかるというか。
視線を逸らしたことに気付いたのか、ふわりと頭を撫でられて。どうしたらいいのかわからなくなる。
エリゼやアリサやフィーの頭を撫でたことはあっても、俺は撫でられる側ではなかったから。
「君にばかり負担を強いて、申し訳ないと思ってるんだ」
「いえ……それが俺の役目ですから」
白でも、黒でもなく。そのどちらも内包する混沌。
どちらにも所属することを許されない、中途半端な立ち位置なんだろう。俺は。
「オリビエさん……少し、カレイジャスから降りていいですか」
「ああ、構わないよ。バイクも用意させようか」
「お願いします」
頭を撫でられたまま、ぺこりと下げればしょうがないなという様に笑われた。甘やかされてる自覚は、ある。
与えられた時間は、2時間程度。ついでに買い出しをと言われてメモまで渡されてしまった。俺の我儘なのに、そう思わせないように気遣ってくれてるんだろう。ありがたく、その厚意を利用させてもらう。
今カレイジャスに乗っている人数はそれなりに多いから、頼まれたものもそれなりに多くなりそうだ。
地図と見比べて、一番近い街へと向かう。
なんとなく。飛行艇は苦手だ。高いところが怖いとか何故鉄の塊が空に浮かぶのかとかそういうことじゃなくて。
――ルーレで撃ち落とされた飛行艇を、思い出してしまうからかもしれない。
「……どれだけ影響受けてるんだよ、俺」
買い出しメモに目を通しながら髪を掻き上げる。頭痛は、少し増した気がした。あんな場所で不用意に寝入ってしまって、風邪でも引きかけているんだろうか。自業自得だとはいえ、風邪ひいて寝込んでいる場合じゃないこともわかっている。
悪化させる前に、なんとかしないと。
頼まれた品と、ついでに蜂蜜とカモミールを買い込む。
あらかた買い物を終えてみれば、両手は荷物で塞がっていた。まだ学院で生活していたころ、学院祭の準備をするトワ会長の手伝いでトリスタで買いだしていた時みたいだと思いだして苦笑した。いまは、俺しかいない。
けれど、空はあの日とよく似た、きれいな茜色に染まっていて。
じわりと滲んだ視界に、奥歯を噛みしめて顔を伏せた。
本格的に体調が悪くなってきているのかもしれない。体調が悪ければ心理的にも弱ってしまっても仕方がないだろう。
さっさとカレイジャスに戻って、ハーブティーでも入れて体を温めて休もう。
そう決めて歩き出した瞬間、不意に後ろから回された手に口を押えられて目を見開く。
それほど油断していた自覚はなかったけれど。思っていたより体調不良なのが響いていたんだろうか。背後を取られたことにまったく気づかなかった。それだけ気配を消すことに慣れているのか。逃れようと思って、一瞬ためらってしまったのはカレイジャスのクル―たちから頼まれた両腕の荷物のことを考えたから。折角、優しいみんなが頼んでくれたものを無責任に投げ捨てたくなくて。
その一瞬の逡巡が、命とりだったんだろう。
バシッと全身に雷を喰らったような衝撃が走った。暗くなる視界の端で、買い出しの荷物が石畳に落ちる。
ごめん、みんな。ごめんなさい、オリヴァルト皇子殿下。
声にも出せず、ただそう思うことしかできず。俺の意識は落ちて行った。
見覚えのない、薄暗い倉庫めいた景色に、目を細める。何故こんな場所にいるのかと考えて、意識を失う前のことを思い出して嘆息した。
誰かに殺されるかもしれない可能性は考えていた。それはなくても、正規軍や領邦軍に捕らえられることも。
まさか、こんなふうに拉致されることなんて思いもよらなかったこともある。
俺なんかを浚ったところで利用価値などないだろうに。
身を起こそうとして、両腕は後ろ手に縛られ脚もぐるぐるとロープが巻き付けられていることに気付く。それでも芋虫のように身を捩って上体を起き上らせれば、ずきりと頭に痛みが走った。ますます悪化しているそれに眉根を寄せる。カレイジャスの甲板の床よりこの倉庫めいた部屋の床は冷えていて体が奥底から冷えてしまっている気がする。そのくせ体内はどこか嫌な感じに熱を持っている気がする。
倉庫の埃っぽさのせいか喉が、ひどく渇いて。
どうするべきかと思案を巡らせる。まだ、頼まれた荷物をみんなに届けていないし、アンゼリカ先輩から譲り受けたバイクも店の前に止めたままだ。性質の悪い不良とかに悪戯されていたりしないだろうかと心配になる。
なんとか誰かに連絡が取れないものか。腰のポーチの重みからARCUSは奪われていないことはわかっても、縛られた状態で取り出して通信を送ることもできないしそもそも帝国内でも通信環境がそこまで完全に整っているわけでもない。
それでも、これを奪われていないということは。
軍や西風や結社では、ないのだろう。そんな雑魚といっていい相手に後れを取ったという事実に、頬が引き痙る。
「……」
どうにかして逃げないと。そう、呟こうとして。言葉が音にならないことに気付いた。声を出そうとしても、喉の痛みとひゅーという吐息にしかならない。
自分で思っていた以上に風邪の症状は進んでいるらしい。
まぁ、ある意味では好都合なのかもしれない。俺を捕まえた敵がなにをもくろんでいるのかは知らないけれど、拷問されても機密を口にすることもないだろうから。
ある意味馬鹿げたことを考えて自嘲じみた笑みを浮かべて、そしてこちらへ近づいてくる足音に気付いた。
ドアが開いて、二人の男が部屋へと入ってくる。見覚えはない。雰囲気や身に着けているものは、それほど洗練されていないようだし動きも隙だらけだ。そのくせ、どこか荒んだ空気。
猟兵、というのもおこがましいレベルの雑魚。先ほど考えていた正体そのものに、嘆息する。
「こんな寂れた田舎におまえみたいな大物が護衛もなしにふらふら出歩いてるなんてなぁ」
告げられた言葉の意味が分からず、首を傾げる。
大物? 何がだ?
「しかもこんな簡単に手に入った」
「噂じゃ侍だか忍者だかって聞いてたけどただのガキだよな、こうしてみれば」
うるさい。俺がただの子供だなんてことくらいとっくに自覚してる。なら、そのただの子供を拐かしたお前らはなんなんだよ。
うんざりと睨み付ければ、前髪をひっつかまれた。禿たらどう責任とってくれるんだ。
「そういう反抗的な態度はよくないなぁ。いくらリィン・シュバルツァーとはいえ一人でこの状態で俺らに勝てるわけねえことくらいわかるよな」
この程度の小物、風邪さえひいてなければ脅威でもないだろう。言い訳するようで癪だけれど。四肢も声も自由にできず、こんな奴らにいいようにされている自分の弱さと迂闊さが心底腹立たしい。
それになんで名前まで知られているのか。
貴族派や革新派から賞金でもかけられているんだろうかと思うと猶更うんざりした。
どうやってこいつらに反撃してこんなところから逃げ出すべきか。縛られた腕を動かせば、ロープがきつく食い込んで皮膚が擦れる。関節を外せば抜け出せないこともないだろうけれど、そうすればもとに戻る保障もない。今この時期にそれをするメリットとデメリットを秤にかければ、あまりいい手段ともいえないだろう。
誰かが助けに来てくれるのを待つかと考えて、冗談じゃないと即座に脳裏で否定する。助け出されるのを待つお姫様なんてガラじゃない。
ヴァリマールを呼んだら、ここまで来てくれるだろうか。けれど生憎声は風邪のせいで潰れている。それに多分距離的に離れすぎてるだろう。
次から外出するときには、ナイフの二本くらいは隠し持っておくべきだろうか。
頭痛と悪寒のせいで、思考はひどく散漫で八つ当たりめいたことばかり浮かぶ。
あの力を使えば、こんなロープを引きちぎることくらいたやすいんじゃないだろうか。
それに思い至った時。
部屋の外が急に騒がしくなった。
「なんなんだ一体」
「ちょっと様子見てくる、お前はこいつを見張ってろ」
誘拐犯の片割れがドアを開けた瞬間、その体はドアの外へと引きずり出されていた。何か質量の大きなものがぶつかる音とか折れるような音だけが響く。あと、悲鳴。
縛られたまま、残った男を見上げれば、その顔色は蒼白といっていい状態で脂汗に塗れていた。
本当に、この程度の奴に捕まったことが情けなくて笑えてくる。
ドアの外に来た何者かが、俺にとっての敵か味方かなんてどうでもいい。まずは、目の前の障害を取り除いて、そして買い物をし直してバイクにのって帰らないと。
意識が切り替わる感覚も、左胸の痣が疼く感覚もなく。ただ視界が赤く染まる。体に巻きつくロープは、軽く腕を振れば容易く千切れて重力に従って床に落ちた。
「ば、化け物……」
馬鹿馬鹿しさに、目を細める。
他人を自分の利益のために浚うような輩のほうがよほど化け物だろうに。縛られていた腕の調子を見ようと手首を振るえば、見張り役だったらしい男は壁際へと勝手に後ずさっていた。
こんな男を殴ることも時間の無駄だろう。
さっさと買い物をし直そうとドアを開ければ、腕を掴まれて引かれた。そういえば、何か来ていて一人そいつにやられたんだっけと思い出す。正直体がだるいからあまり戦闘はしたくないけれど、捕まりたくもないし。捕まるわけにもいかない。
さっきドアから引きずり出された男が受けただろう衝撃に備えて構えれば不意に抱きしめられた。
何なんだ一体。それとも、殿下かトヴァルさんか、Ⅶ組の仲間が俺を助けに来たんだろうか。それにしては相当荒っぽそうな音だったからてっきり別の勢力かと思っていたのに。
ああ、やっぱり頭がうまく働かない。思考がまとまらない。
俺を抱きとめる誰かを見上げようとすれば、不意に頭を撫でられた。
今日はやけに撫でられる日だなと苦笑する。
「……すげぇ熱」
呆れと苦笑の混じった声に、目を見開く。
よく知っている声、だ。知っていた、というべきか。
何故、という言葉は、声にはならなかった。
「おまえなぁ、なんでこんなとこで拉致されてんだ」
おまえこそ。何故こんなところにいるんだ。
クロウ――
呼ぼうとした名は、ただ息の漏れる音にしかならない。ただ、唇が刻んだ名だけは通じたらしく黒衣の青年はその朱眸に笑みを浮かべた。
「どこの人魚姫だよ。大人しくて静かなおまえってレアなもん見た気がする」
どんな謂れようだ。普段の俺はそこまでうるさく騒いでいるように見えたんだろうか、この男には。
むっと目を眇めれば苦笑一つ返される。
「ちゃんとお利口に静かにするときは静かにしてるんだが、なんだ。しっぽがあったら全力で振ってそうな雰囲気?」
人を犬扱いするそのセリフに、頭痛がさらに悪化した。
本当に。どうしてこんなところでクロウに会うんだ。自分が捕らわれたことは棚に上げるとしてもこんな、組織というにもとるにたらないだろう輩のために帝国解放戦線のリーダーが出張ってくる必要性もわからない。
偶然というには、この男とは縁がありすぎる気がする。
それに。
あんな夢を見るくらいには、無意識に意識してしまっているんだろうか。
ありえない、と思いながら。どこかで期待してしまっているのならば確かに殿下の言うとおり恋する乙女なのかもしれない。乙女じゃないけど。
「……口に出さなくても考えてること顔に出過ぎだな」
冷静にしてきされて、睨み上げればそんな潤んだ目で睨まれても怖くもねえと返された。
意味が分からない。
嘆息すれば、接している部分からクロウがくつくつと笑う振動が伝わってくる。
本当にお前はなんでこんな場所で、こんな出会い方をして。そのくせそんな上機嫌に笑っていられるんだ。
現状、敵対しているといっていいだろう。お互いに、譲れないものもあることも頭ではわかっているし、殴ってでも連れ戻す覚悟は何も変わっていないけれど。
学院生クロウ・アームブラストはただのフェイクで存在しないというくせに。こうして俺の前に現れるお前はどこまでもクロウだ。
そう考えて、けれど少し違う部分もある気がした。
目の前の黒衣の青年には、クロウがいつも冗談めかしてミラが足りないという貧乏臭さは感じない。この男が動かしているミラは、50ミラを返そうとして10ミラしかないから待ってくれというような学生の懐事情とは違うだろう。
それこそ、薔薇の花束くらい買えるくらいにはミラの匂いがする。
「だからそうやって妙な事考えるのやめろって」
ぽふんと頭を軽く叩かれて、思考が中断される。
うるさい考え事してるんだから邪魔するな、そう思って再び思考へと戻ろうとする。何を考えていたんだっけ。クロウのことだったか、ミラのことだったか。
「わかったわかった、考えるのは邪魔しねえけど、お前をどこへ送ってやればいいかだけ教えてくれ」
「……?」
送る?
その言葉に、首を傾げる。
「お前自覚あるかないかわからんが、すごい熱だぞ? こんなところにいちゃ治るもんも治らんだろ」
確かに風邪気味で体調不良なことは自覚しているけれど。そこからなぜ『送る』になるのか。
クロウにとっては俺は計画の邪魔にしかならない敵だろう。なぜそんな俺をわざわざ送るとかそんなことになるんだ。帝国解放戦線のリーダー様が。直々に。
意味がわからない。
「もういい、勝手に考えてろ。とりあえず街に戻るぞ。……歩けるか?」
もちろん歩けるとこくりと頷く。歩けないと答えたら、背負われるか抱き上げられるかして運ばれるんだろ。そんな恥ずかしい真似されても困るんだ、俺は。
どうしても、あの夢を意識してしまいそうで。
掴まれた右腕を強く引かれて、着いて歩く、というより半ば駆け足になる。身長差と足の長さの差が恨めしい。クロウもクロウだ。熱があるだの送るだの言うくせに、歩幅を俺に合わせるくらいしてくれたっていいんじゃないだろうか。
半ば八つ当たり交じりに思えば、クロウが急に立ち止まった。駆け足状態だった俺が急に止まれるはずもなく、急に止まったクロウの背中に強かに顔面からぶつかってしまう。頭だけじゃなく鼻まで痛くて、泣きそうになる。これ以上低くなったらどうしてくれるんだ。
「悪い」
さして誠意の感じられない謝罪に、半眼で睨みつける。
「お前導力バイクに乗ってきたのか……」
クロウの視線を追えば、その先に確かにバイクがあって。こくりと肯定の意味で頷く。バイクに気を取られて足を止めたのか。
けれど、盗まれたりいたずらされたりしてなくてよかったとほっとする。
「ばぁか。ジョルジュ渾身の盗難防止装置つきだぜ? ゼリカかお前か俺以外が乗ることはゆるされねえよ」
「……」
そんなに、俺は考えていることが顔に出ているんだろうかと眉を寄せる。
「ああ。わかりやすい。……腹の探り合いしなくていいっていうのは居心地いいな」
「……」
それはそれでどうなんだろうか。俺とクロウは、敵対しているはずだろうに。
「んな難しい顔して悩むことはないだろ。病人相手に本気出すほど落ちぶれちゃいねえよ。馬鹿にすんなって」
「……」
それはつまり病人だから手加減しているということなんだろうか。それはすこし――ムカつく、気がする。
「はいはい。それでお前、どうせ買い出しかなにか頼まれてるんだろ。見せろ」
きれいに全部言い当てられて、コートのポケットから買い出しメモを取り出せばひょいと奪われた。
「……お前相変わらずお人よしすぎんだろ」
お前にだけは言われたくないと視線を逸らす。
俺の腕を掴んだまま、クロウはバイクを止めている店に入っていった。さっき一度買った商品をもう一度買う。品切れしてなくてよかったと少しほっとした。
俺が両手で持った荷物を容易く片手で持って店をでる姿に目を細める。そこまで身長も体格も違う気がしないのに。
「んー、お前、手貸してみろ」
また考えを呼んだのか、クロウがそう言ってくる。掴まれていた手をそのまま差し出せば、クロウも掌を合わせてきた。
手の厚みも、指の長さも違う。
鍛え方や武器の差だけじゃなく、元々の体格の差まであればどうしようもないんだろうか。
「お前はお前の手で掬えるだけ救えばいいだろ」
でも、それならば。指の隙間から零れ落ちてしまう。自分を万能だなんて思うこともできないけれど。それでも。
「やれるだけやってみりゃいい。足掻けるだけ足掻け」
だからなんでそれをお前が言うんだ。そう思うのに。
どこか、素直に。クロウの言葉が自分の中に沁みわたっていく。
「俺を殴ってでも連れ戻すんだろうが、お前は」
ああ。そうだった。
それこそ今すぐにでも殴り飛ばそうか。
「それは遠慮する。言っておくが俺は別にお前に殴られたいって言ってるわけじゃないからな?」
そうなのか? 自分から言い出すからてっきり殴られに来たのかと。
見上げて笑えば、ひどく柔らかく、笑い返されて。じくりと左胸の痣が痛んだ気がした。
「……ちょっとここで荷物持って待ってろ。誰かにほいほいついていったり浚われたりすんなよ?」
二度同じ目にあうつもりもないと睨めば、苦笑される。
ずいぶんと馴染んだ気がする導力バイクに持たれて、歩いていくクロウを見送る。隙のない立姿とか、すこしくすんだ、けれど陽光の元では眩いくらいの灰銀の髪だとか。つい、その背中を目で追ってしまう。年齢の差としてはたったの二歳違いだというのに。クロウならば簡単に浚われることもなければ、ガキ呼ばわりはされないんだろう。だからこそリーダーなんて立場に収まっているんだろうし。
クロウの面倒見の良さなんか、身をもって知っている。
明確な敵であるはずの俺にすら、風邪だとかそんな理由で優しく接してくるのは。
鼻腔を擽る、甘い香りに視線を上げれば、いつの間に戻ってきたのかクロウが横に立っていた。いつもならば感じる気配がまったく読めないのは、体調が悪いせいだろうか。
そのせいで酷い目に合ったと思い出せば、すっと目の前にカップが差し出される。
滑らかな赤褐色の液体から、温かそうな湯気が立ち上っている。
「……?」
「ホットチョコレート。奢ってやるからありがたく飲んどけ」
ああ、やっぱり今のクロウからは貧乏臭さは感じないなと思いながらカップを受け取った。学院生クロウ・アームブラストのフェイク部分って、金がないふりをしてる部分くらいなんじゃないだろうかと思う。
風邪で腫れて渇いた喉に、甘い液体が柔らかく沁みわたっていく気がする。
「お前なんか失礼なこと考えてただろ」
何がだ。むしろ前向きに検討しているだろ。総合評価としてはやっぱりクロウはクロウだなという結論に落ち着く。
隣を見上げれば。クロウも何か飲んでいて。けれどそちらはチョコレートの甘い香りはしない。
「コーヒーだが……こっちの方が良かったか?」
問われて少し考えて、首を横に振る。コーヒーも紅茶も嫌いじゃないが、今日はこの甘さと暖かさが心地いい。
ほわほわとホットチョコレートの湯気と香りを堪能していれば、不意に脚に触れられて隣のクロウを睨み上げた。
「悪いがそれ、ちょっと貸せ」
「……」
貸してほしいなら先に言えばいいだろうになんで触る必要があるんだ。
ホットチョコレートのカップを片手でもって、もう片方の手でポーチからARCUSを取り出して渡す。
「……お前なぁ、もう少し危機感持てよ。敵にこれ渡していいと思ってるのか」
「……」
そんな危機感があれば、買い出しにも付き合わせることはしないし、元々このホットチョコレートも受け取らないと思うんだけど。その時点で察しろ。無駄に頭いいくせに。
睨む先でクロウは慣れた仕草でARCUSを操作する。当たり前だろう、俺たちよりも一年長く、この型の戦術オーブメントと付き合ってきたんだこの男は。
『リィンくんかい? ずいぶん遅いけど何かあったのか』
「おたくの大切なわんこなら預かってる。無事に返してほしかったらさっさと迎えに来てやれ」
また犬扱いかと嘆息する。
『その声は、《C》か』
「ご明察」
『……君があの子を拾ったのならそのまま連れ去るかと思っていたよ』
「そうしてほしいならそうするが。――まだ、そちらに必要だろう? 灰の騎神の力は」
『その役目を終えればいつでも迎えにくるつもりか?』
「さあな」
応える義理はないとでもいうように、ARCUSの通信を切る。
どういうつもりなんだ。どう考えても敵対する組織のリーダーの取るべき行動ではないんじゃないだろうか、これは。
「サンクス」
返された戦術導力器をポーチにしまいながら視線だけで問う。
「んー」
視線が逸らされて。目を眇める。なんとなく面白くない。
「……おまえ、今日が何の日かわかってんのか?」
「?」
何か、特別な日なんだろうか。ユミルにいたころからそういったことには疎かったし、トールズに通い始めても十月までくらいしかまともに過ごせなかったから慣習にはあまり通じていない。
「……とある国じゃ、今日最初に会った娘を恋人にするんだってな」
言われて、首を傾げる。今日、どこかで女の子と会ったっけ? 記憶を浚ってみても、殿下と雑貨屋の店主と、あの誘拐犯二人とクロウしか思いつかない。
まぁ、まだ内戦も落ち着いていない状況で恋人なんて言ってられないから好都合かもしれない。
そう考えて、ふと首を傾げた。
なぁクロウ。夢で逢うのはカウントにはいるのか?
そう問いかけようと振り返れば、ついさっきまでそこにいた黒衣の姿は消えていて。俺の手には少しぬるくなったホットチョコレートと、クル―たちへの荷物だけが残っていた。
それと、遠くから俺を呼ぶ声。あれから速攻でこちらに向かったんだろうか。苦笑して、答える様に手を挙げた。
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